留魂祠2017年07月23日 17時53分59秒


西郷は言う
人々の上に立つ者は
己を慎み、品行正しく、驕奢を戒め、節倹を勉め、
人々の標準となり
人々の喘ぎを苦しみを
見つめ続けねばならぬのだと

西郷は嘆く
地位を得た奴らは日夜
家屋を飾り、身を飾り、美妾を抱え、蓄財を謀り
宴に興じるばかりであると

西郷は涙する
これでは天下に対し
戦死者に対し
面目が立たぬと
誠にもって
申し訳が立たぬと

西南戦争が幕を閉じ
世の中が落ち着きを取り戻した頃
勝海舟は
東京府葛飾郡の浄光寺境内に
西郷を祀る祠を自費で建立した

パンダとセットになってしまった銅像などとは違い
ひっそりと祀られたものらしい
勝先生の胸中は
如何程であったのだろうか

たかだか150年前
同じ日本人同士が戦争を繰り返し
殿様は引き摺り下ろされ
現在に繋がる政治体制が築かれた
西郷さんが150年前に言っていた
人々の上に立つ人の標準など
未だ現れた例がない

政治家だけに限らない
企業などあらゆる組織においても
真面目に実務に勤しむ者を
蔑ろにしちゃいけない
社員より株主のほうが大事なんて考え方
どうかしてるだろ
駄目なものはいずれ破壊される
日本が未だ滅びず済んでいるのは
その始まりに西郷さんがいたからなのだ

経済活動なんて
たかだか
美味いもんが食いたいだの
あの女を抱きたいだのといった
個々の欲が原動力になっているだけで
大したことではない
だから仕事が辛い辛いと
病気になったり自殺したりするなんて
つまらないから止めたほうが良い

勝海舟没後の大正2年に
この留魂祠は大田区の洗足池に移された
勝夫妻の墓と並んで建っている

西郷隆盛のイメージとは懸け離れた小さな祠
だけど
どうやら僕らは
西郷さんのイメージを
あまりにも膨らませ過ぎてしまっているようだ
お馴染みのあの顔だって
誰かの作為のモンタージュだ
ましてや浴衣で犬の散歩なんかしたことないそうだ
勝海舟がひっそりと
小祠を建立せざるを得なかったところに
真実があるような気がする

留魂祠

留魂祠

留魂祠

留魂祠
東京都大田区南千束2丁目3

皆中稲荷神社2017年07月30日 16時16分28秒


辺り一面が焼け野原だ
巨大な破壊が通り過ぎ
俺達は何もかも失ってしまった

蛆虫のように
うじゃうじゃと
生きていた人が集まり始める
汚れた顔のまま
襤褸を纏ったまま

夥しいバラック群
細い路地には
小便の臭い
此処は俺の場所だよと
権利は主張され
呆然としていた行政が
気づいた時には
既になす術もない

徳川幕府の鉄砲部隊である百人組
彼等の居住地が
百人町の由来である
なにせ徳川安泰の三百年
彼等は鉄砲の稽古や
警備などの仕事はしていたが
戦争に駆り出されるわけでもなく
給料も安いので
副業でつつじを栽培するなど
なにやら呑気な生活だったらしい

明治以後は
陸軍技術本部が置かれるなど
軍都としての様相を呈すようになる
それが為か
第二次世界大戦では
激しく空襲の標的となり
廃墟と化す

皆中稲荷から
異国の料理店と
外国人が犇めく通りを
北に向かう

百人町三丁目あたりから急に
不自然に町割りの狭い
密集した戸建ての住宅地が現れる
戦後の荒廃した土地に
次々と建てられたバラック住宅の
痕跡が町割りに残っているのだという

やたら土地が歯抜けになっていて
区の管理地だったり
ポケットパークという公園だったり
その横で
そのまま建て替えられたのか
新しい家には
ベンツが停まっていたりする

皆中稲荷は
みなあたるという意味で
百発百中を祈願する
百人組の輩に
信奉されていたという
今では
ギャンブルや宝くじが当たるといった
俺だけに幸福が当たるようにと
考える輩で賑わう

今度空襲があったら
それで生き延びることができたら
俺も戦後のドサクサで
東京の土地を手に入れてやるぜ
俺だけに
俺だけに

みなあたるは
みんなにあたる
だといいのにな

皆中稲荷

皆中稲荷

皆中稲荷

皆中稲荷神社
東京都新宿区百人町1-11-16