純子稲荷神社 ― 2021年11月21日 16時15分32秒
「一月に一度
座敷牢の奥で
玉姫様の発作が起きる」
(「玉姫様」 戸川純)
なんで純子なのだ
というのが最初の疑問
どう考えても女性の名前であろう
茅場町にある小さな神社
狭いながらも綺麗な境内に
名入りの提灯が下げられていたりと
今でも周囲から
大切にされているのがよくわかる
江戸の町のお稲荷さんは
狐憑きが起きる度に建てられたのだと
何かで読んだ記憶がある
銀座の丁目毎にあるのなどは
きっとそうに違いないと
勝手に思っている
だから多分
美人の純子さんが発狂して
美しい娘が狐に憑かれたと
泣く泣く父親が建てたものだろうと
またまた勝手に思って
この地を訪れた訳だが
境内に立派なパンフレットが置いてあって
それ曰く
純心な精神を子々孫々に伝え遺すにふさわしく
との意をもって命名された
とあって
何だか崇高な意味合いでありました
関係者の皆様ごめんなさい
とは言え果たして
そんな意味合いを純子と表現するのか
とまだしつこく疑っている
亀島河岸にあった小さな祠
関東大震災と東京大空襲で二度も灰燼に帰した祠
それでも再建を果たすのは
地元の崇敬の厚さもあるが
其れらを統べる強力な
リーダーが存在していたに違いない
そのリーダーの奥さんが純子さんだったと
またまたまた勝手に思っている
戸川純の本名も純子だったと思い出す
本当は順子だけどね
赤い月の夜にブラウン管に現れたその女は
トンボなのかカゲロウなのかの巨大な羽を生やし
憑かれた様に歌い踊り狂っていた
悪意を持って殺されてしまう間際
もし仮にそんな場面があるとしたら
きっとあの時と同じ戦慄を味わうに違いない
SNSで「好き好き大好き」がバズっているそうだ
何だバズるって
30年以上昔の田舎の高校生の胸を抉った名作が
現在の子供達にも届くなんて
なんか素敵だな
「好き好き大好き
好き好き大好き
好き好き大好き
愛してるって言わなきゃ殺す」
(「好き好き大好き」戸川純)
純子稲荷神社
東京都中央区日本橋茅場町3-13-6
銀杏八幡 ― 2014年12月06日 18時54分20秒
詩人は言う
「しかもなほ形を変へた亡霊たちが
戦後の社会を彷徨し、
我々の空を暗くしてゐるのを凝視するには、
戦争の犠牲はあまりにも
高価であったことを知る者にとって、
戦時中以上の忍耐であると言はねばならぬ。」
(主張(抄))
戦死した57人の名前
かつてこの町内の住民だったのだろうか
そして今では
オフィスビルやマンションが林立するこの街に
今もなお
その町内は存在しているだろうか
武神である八幡社の境内
昭和殉国英霊碑と刻まれた記念碑が建つ
何も説明がないのでわからないが
町内の人の有志が建立したものか
建てられたのは敗戦後8年経ってからだ
生き残った町内の人は
決して帰って来なかった57人を
英霊と呼び弔う
敗戦を境に掌は返され
先生は教科書に墨を塗り
今日から民主主義ですとしゃあしゃあと語り出す
軍国主義時代は完全否定され
戦争の色合いを残すものは
隠蔽され破壊される
戦争や震災でたくさんの人が死んだ
決して過去に執着する必要はないが
生き残った僕らはきっと
生き残ってしまった負い目を背負いながら
食べたり笑ったり考えたりしなければ
いけないのかもしれない
外人からの靖国批判に違和感を覚えるのは
僕らがかつて
戦後8年経った後でも
英霊碑を建ててしまう
57人の名前を刻み
なんとか真空の空洞を埋める
そんな町内の人だったからだ
ここ最近
テレビや街頭では
亡霊のリーダー達が
人を殺したことのある眼をして
不気味な声を発してる
その周りで僕らは
もはや町内の人にもなれない
真空を埋める言葉もない
戦争で友人を失った詩人は
暗い空の下で言葉を書き連ねる
生き残ってしまった詩人は
饒舌に沈黙を刻みつける
「埋葬の日は、言葉もなく
立ち会うものもなかった、
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空に向かって眼をあげ
きみはただ重たい靴の中に足をつっこんで
静かに横たわったのだ。
『さよなら、太陽も海も信ずるに足りない』
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。」
(「死んだ男」鮎川信夫)
戦争の犠牲はあまりにも
高価であったことを知る者にとって、
戦時中以上の忍耐であると言はねばならぬ。」
(主張(抄))
戦死した57人の名前
かつてこの町内の住民だったのだろうか
そして今では
オフィスビルやマンションが林立するこの街に
今もなお
その町内は存在しているだろうか
武神である八幡社の境内
昭和殉国英霊碑と刻まれた記念碑が建つ
何も説明がないのでわからないが
町内の人の有志が建立したものか
建てられたのは敗戦後8年経ってからだ
生き残った町内の人は
決して帰って来なかった57人を
英霊と呼び弔う
敗戦を境に掌は返され
先生は教科書に墨を塗り
今日から民主主義ですとしゃあしゃあと語り出す
軍国主義時代は完全否定され
戦争の色合いを残すものは
隠蔽され破壊される
戦争や震災でたくさんの人が死んだ
決して過去に執着する必要はないが
生き残った僕らはきっと
生き残ってしまった負い目を背負いながら
食べたり笑ったり考えたりしなければ
いけないのかもしれない
外人からの靖国批判に違和感を覚えるのは
僕らがかつて
戦後8年経った後でも
英霊碑を建ててしまう
57人の名前を刻み
なんとか真空の空洞を埋める
そんな町内の人だったからだ
ここ最近
テレビや街頭では
亡霊のリーダー達が
人を殺したことのある眼をして
不気味な声を発してる
その周りで僕らは
もはや町内の人にもなれない
真空を埋める言葉もない
戦争で友人を失った詩人は
暗い空の下で言葉を書き連ねる
生き残ってしまった詩人は
饒舌に沈黙を刻みつける
「埋葬の日は、言葉もなく
立ち会うものもなかった、
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空に向かって眼をあげ
きみはただ重たい靴の中に足をつっこんで
静かに横たわったのだ。
『さよなら、太陽も海も信ずるに足りない』
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。」
(「死んだ男」鮎川信夫)
銀杏八幡
東京都中央区日本橋蠣殻町1-7-7
於岩稲荷田宮神社 ― 2014年10月26日 14時28分53秒
田宮伊右衛門は
お岩の醜い顔が嫌だった
頑固な性格が嫌いだった
妾を孕ませてしまった近所の与力と結託し
お岩を追い出すことにした
外で金を使いまくり
家で暴力を振るう夫を演じた
お岩は出て行った
すぐに与力の妾を妻にした
いつしか話はお岩に伝わり
お岩は発狂した
四代目鶴屋南北が1852年に
「東海道四谷怪談」を上演する以前から
お岩さんの怪談は江戸の町に流布していた
田宮家の屋敷神であった稲荷社が
いつしかお岩稲荷と呼ばれ
現在に伝わっている
神社の由緒では
お岩さんは夫の伊右衛門と仲睦まじい夫婦で
真面目に奉公し傾いた田宮家を救った
それもこれもこの稲荷社を熱く信奉していたからで
その評判で多くの人が集まるようになった
とある
関係者には申し訳ないが
稲荷社にご利益があっただけで
お岩さんご本人を田宮於岩命として
合祀する理由がわからない
ここはやはり
強烈な怨みを持って死んでいった怨霊を
神様として崇めそのパワーにあやかるという
日本古来からの怨霊信仰説を唱えたい
真実は永遠にわからないだろうが
怪談を形成する程のなんらかの事象があり
怨みを持って死んでいった憐れな女を
神様として合祀した
と考えるのが妥当ではないだろうか
いずれにしろ
「東海道四谷怪談」の大ヒットにより
お岩さんは伝説になった
そして21世紀の今日に至ってもまだ
その伝説は増殖を繰り返している
面的な拡がりと経過した長大な時間は
現実を侵食すべく虚構を醸成する
四谷の於岩稲荷田宮神社と同じ名前の神社が
中央区新川にある
明治12年の四谷左門町の火事で
ここに移されたらしい
芝居小屋の近くに置きたいと
初代市川左団次が願い出たとか
昭和20年には空襲により社殿は焼失
戦後に再建され現在に至る
戦後の混乱に乗じたのか
四谷の田宮神社旧跡前の焼け野原に
於岩稲荷立正殿日蓮宗陽運寺という寺が建った
お岩さんの像を祀っているという
追いかけるように昭和27年
元の場所に田宮神社が再建された
二つの社寺は道を挟んで向かい合い
お互いに赤い幟でお岩稲荷はここですよと主張する
玉垣の寄進者が面白い
田宮神社の方は歌舞伎座 明治座 演舞場と
現役バリバリのメンツが揃うのに対して
陽運寺は新宿二丁目カフエー事業協同組合
荒木町三業地 大木戸三業地と
往年の花街色街の名前が並ぶ
芸妓や売春婦が
戯れに怪談を語ったりしたのだろうか
歌舞伎にとどまらず
昭和30年代から四谷怪談は映画になったり
漫画になったりドラマになったりと
ますますメジャーになるお岩さん
四谷三丁目交差点のスーパー丸正には
お岩水かけ観音なんてぇのが登場
お岩さん詣でが客引きになる時代があったのかしら
もはや何に対する崇拝なのかさっぱりわからない状態
四谷鮫島橋にあった田宮家菩提寺の妙行寺
お岩さんのお墓もちゃんとある
とげぬき地蔵への対抗だろうか
明治42年に巣鴨に移転
周辺をお岩通り商店会と名付けるほど
お岩さん誘致に地元の人は熱狂したようだ
お岩さんのお墓を訪ねてみた
以前はお墓の写真には
必ずお岩さんが写ると言われてたらしいが
さすがに昨今のデジカメには
お岩さんも太刀打ちできないだろうと
高を括ってお墓の前で電源を入れると
SDカードが読めませんとエラーメッセージが
お岩さんはなかなかにいたずら好きのようだ
かわいいじゃねぇか
なんとか撮影は出来
帰って写真を確認
えっ
こ、こいつは公開できねぇな
於岩稲荷田宮神社
東京都新宿区左門町17
於岩稲荷陽運寺
東京都新宿区左門町18
於岩稲荷田宮神社
東京都中央区新川2-25-11
お岩水かけ観音
東京都新宿区四谷3-12スーパー丸正
お岩さんの墓
東京都豊島区西巣鴨4-8-28長徳山妙行寺
椙森神社 ― 2014年09月07日 08時52分01秒
どうしたんだろう
あんなに揺られてたのに
あんなにプカプカしてたのに
音が聞こえる
ザザザァって聞こえる
お母さんに抱かれてよく聞いてた音だ
お母さん
お父さん
どこにいるの
ここは狭くて暗いよ
僕は自分で立ったりできないんだ
ここからは出られない
あ
眩しい
誰
日本橋の椙森神社
祭神は五社稲荷と恵比寿大神
由緒にはこうある
「当社は遠く一千年の昔、田原藤太秀郷、将門の乱を鎮定の為、戦勝を祈願するを始めとする。文正元年、太田道灌、雨乞祈願に霊験あり、五社稲荷大祭を遷し祭祀する。江戸時代には江戸三森の一つに数えられ恵比寿大神を祭祀す。」
将門派の私はアンチ将門神社には
あまり興味が湧かないのだが
あんなに揺られてたのに
あんなにプカプカしてたのに
音が聞こえる
ザザザァって聞こえる
お母さんに抱かれてよく聞いてた音だ
お母さん
お父さん
どこにいるの
ここは狭くて暗いよ
僕は自分で立ったりできないんだ
ここからは出られない
あ
眩しい
誰
日本橋の椙森神社
祭神は五社稲荷と恵比寿大神
由緒にはこうある
「当社は遠く一千年の昔、田原藤太秀郷、将門の乱を鎮定の為、戦勝を祈願するを始めとする。文正元年、太田道灌、雨乞祈願に霊験あり、五社稲荷大祭を遷し祭祀する。江戸時代には江戸三森の一つに数えられ恵比寿大神を祭祀す。」
将門派の私はアンチ将門神社には
あまり興味が湧かないのだが
この由緒にはなんだか疑問を感じた
道灌が雨乞い祈願のため稲荷を祀った
江戸時代に恵比寿大神を祀った
では
田原藤太秀郷は一体
誰に将門征伐を祈願したのだろうか
江戸城下のど真ん中にあるこの神社は
商売繁盛の恵比寿講で商人達の絶大な信仰を集め
今の宝くじの起源である富札を発売し
江戸庶民の間で大ブームを巻き起こしたという
都市で暮らす人々のニーズに上手に応えていった
まさに都市型神社の典型と言える
兵庫県の西宮神社や
大阪ではえべっさんと呼ぶ今宮戎神社などは
勿論エビス様で有名なのだが
元々はイザナギイザナミの最初の子である
蛭子命ヒルコノミコトを祀っている
蛭子はエビスとも読み
後々仏教の神様の恵比寿と習合していったと言われる
蛭子は生まれて三年過ぎても
立つことが出来ない骨無し子であった
グニャグニャな奇形児であった
夫婦は不具の子を船に入れ海に流してしまう
漂着した地が今の西宮神社だという
異形の子に不思議な力を感じたのかもしれない
蛭子は人々の信仰の対象となった
都市で暮らす人々にとっては
商売繁盛や宝くじ1等賞など
目の前の欲や願いが叶えばそれで良かったのだろう
悲惨な出自を持つ異形の神様より
釣り竿を担いだ人の良さそうなデブの親爺の方が
受け入れられたに違いない
漂着した舟の扉を開けるように
その上っ面をめくってみる
この椙森神社のある場所で
尋常でない平将門のパワーに対抗すべく
田原藤太秀郷が祈願したのはきっと
不思議な力を発揮する異形の神
蛭子命だった
と私は思う
道灌が雨乞い祈願のため稲荷を祀った
江戸時代に恵比寿大神を祀った
では
田原藤太秀郷は一体
誰に将門征伐を祈願したのだろうか
江戸城下のど真ん中にあるこの神社は
商売繁盛の恵比寿講で商人達の絶大な信仰を集め
今の宝くじの起源である富札を発売し
江戸庶民の間で大ブームを巻き起こしたという
都市で暮らす人々のニーズに上手に応えていった
まさに都市型神社の典型と言える
兵庫県の西宮神社や
大阪ではえべっさんと呼ぶ今宮戎神社などは
勿論エビス様で有名なのだが
元々はイザナギイザナミの最初の子である
蛭子命ヒルコノミコトを祀っている
蛭子はエビスとも読み
後々仏教の神様の恵比寿と習合していったと言われる
蛭子は生まれて三年過ぎても
立つことが出来ない骨無し子であった
グニャグニャな奇形児であった
夫婦は不具の子を船に入れ海に流してしまう
漂着した地が今の西宮神社だという
異形の子に不思議な力を感じたのかもしれない
蛭子は人々の信仰の対象となった
都市で暮らす人々にとっては
商売繁盛や宝くじ1等賞など
目の前の欲や願いが叶えばそれで良かったのだろう
悲惨な出自を持つ異形の神様より
釣り竿を担いだ人の良さそうなデブの親爺の方が
受け入れられたに違いない
漂着した舟の扉を開けるように
その上っ面をめくってみる
この椙森神社のある場所で
尋常でない平将門のパワーに対抗すべく
田原藤太秀郷が祈願したのはきっと
不思議な力を発揮する異形の神
蛭子命だった
と私は思う
椙森神社
東京都中央区日本橋堀留町1-10-2
森稲荷神社〜海人族の末裔② ― 2013年08月28日 22時06分34秒
海から糧を得
海と共に暮らし
リーダーが生まれ
ルールが求められ
いつしか幾つもの海人集団が形成されていく
中には暴力的に襲撃と略奪を繰り返す
海賊衆と呼ばれる輩や
陸上における武士団の出現と同様に
軍事的機能を持つ水軍と呼ばれる者達が輩出する
戦国の世となるにつれ
彼らは諸大名の配下として取り込まれ
平時は漁業に勤しみ
有事は海上の兵力として大いに活躍する
大阪の佃を拠点とした森一族は
家康の江戸入りの際
従い同行したことで知られている
森一族は単なる漁師ではなかった
大坂冬の陣、夏の陣において
軍船を漁船に仕立て
海上の偵察を行うなど
重要な戦力として徳川の為に働いている
徳川が江戸を拠点とするにあたり
江戸湾警護などの重要任務を
実績があり信用できる彼らに負わせたのだろう
表向きは佃煮を発明しただの
白魚を献上するだの
特権を与えられた漁師として歴史に登場するだけだが
そこから逆に
その任務の重さと隠密性を測ることができる
森一族の代表格は森孫右衛門という男だ
佃島の居宅のあった場所に
現在でも小さなお稲荷さんが残っている
彼は故郷から遠くはなれたこの地で
江戸の海が一望できるこの地で
一体何を見ただろう
東京の佃島周辺は明治時代から大規模な埋立が始まり
現在の月島から勝鬨に続く土地が形成されていく
私には
故郷を懐かしむ森一族の意向が
この埋立造成計画に
反映されているとしか思えない
驚くべきことに
東京湾に造られたその地形は
あの懐かしい大阪の佃の地と
まるで瓜二つなのだ
海と共に暮らし
リーダーが生まれ
ルールが求められ
いつしか幾つもの海人集団が形成されていく
中には暴力的に襲撃と略奪を繰り返す
海賊衆と呼ばれる輩や
陸上における武士団の出現と同様に
軍事的機能を持つ水軍と呼ばれる者達が輩出する
戦国の世となるにつれ
彼らは諸大名の配下として取り込まれ
平時は漁業に勤しみ
有事は海上の兵力として大いに活躍する
大阪の佃を拠点とした森一族は
家康の江戸入りの際
従い同行したことで知られている
森一族は単なる漁師ではなかった
大坂冬の陣、夏の陣において
軍船を漁船に仕立て
海上の偵察を行うなど
重要な戦力として徳川の為に働いている
徳川が江戸を拠点とするにあたり
江戸湾警護などの重要任務を
実績があり信用できる彼らに負わせたのだろう
表向きは佃煮を発明しただの
白魚を献上するだの
特権を与えられた漁師として歴史に登場するだけだが
そこから逆に
その任務の重さと隠密性を測ることができる
森一族の代表格は森孫右衛門という男だ
佃島の居宅のあった場所に
現在でも小さなお稲荷さんが残っている
彼は故郷から遠くはなれたこの地で
江戸の海が一望できるこの地で
一体何を見ただろう
東京の佃島周辺は明治時代から大規模な埋立が始まり
現在の月島から勝鬨に続く土地が形成されていく
私には
故郷を懐かしむ森一族の意向が
この埋立造成計画に
反映されているとしか思えない
驚くべきことに
東京湾に造られたその地形は
あの懐かしい大阪の佃の地と
まるで瓜二つなのだ
森稲荷神社
東京都中央区佃1-4-4
東京都中央区佃1-4-4
大阪市西淀川区佃あたり
東京都中央区佃あたり
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