讃岐稲荷神社2013年11月05日 23時36分34秒

願人坊主は参道に立ち
チャカポコチャカポコ木魚を叩く
幼子を背負った妻は
ベコベコベコベコ三味線を弾く
盲の老人に付き添う子供は
哀れな泣き真似で憐れみを誘う

増上寺や芝神明の参詣人を目当てに
怪しい芸で金銭や食物を乞う者達
新網町はそんな貧しい人々が住む町であった

維新の後
猛烈に発展する資本主義が
町をさらに救いようのない貧民窟に変えていく

なけなしの稼ぎで兵営の残飯を買い
病気やけがをしても新網の人間というだけで
診療を拒否され死に至る者や
盲や膝行といった不具者となる者が続出する

明治42年には国鉄浜松町駅が開業するが
意図されたものか必要ないと判断されたのか
新網町側に出口が作られたのは
ずいぶんと後の事だそうだ

そんな中
子供達だけは空き地や路地を駆け回り
紙屑と竹切れで器用に作った凧で遊んだり
年に一度の讃岐稲荷のお祭りに
群れをなして境内に集まったり

讃岐稲荷は
東京中の芸妓や男芸人らの崇敬を集めた
芸を売る人々の町にあったからなのか
芸能の発祥をそこに見るからなのか

現在でも
讃岐稲荷の玉垣には
往年の芸能人の名前が確認できる




讃岐・小白稲荷神社
東京都港区浜松町2-9-8

鮫ヶ橋せきとめ神2013年02月24日 15時48分49秒

何故東京の街中に乞食や浮浪者がこんなに溢れるのかと
明治政府は驚愕した
良くも悪くも江戸の行政システムとして存在していた弾左衛門や車善七といった機能は崩壊させたのに
階級社会の上っ面を変えただけでは、その末の歪みは当然のことであったろう
貧しい人々は谷底に集まった
目の前に東宮御所が位置するじめじめとした湿地に巨大なスラム街が出現する
谷底は汚物と伝染病と飢餓の坩堝と化す
陸軍士官学校から排出される残飯が有価物として取引され
彼らはなけなしの金でそれに群がる

いつから在ったものだろう
小祠が現在に残っている
鮫ヶ橋という地名は消滅し
きれいな公園に整地された谷底では
子供達が野球の練習に精を出す

人々は何処へ行っただろう
つい百年前のことだ
小祠は祈りを集めただろう
保証なき残酷な世界からの救済を
あるいはささくれ立った精神は
そんなことを考える余力すら無かったかもしれない

戦後、新興の巨大宗教組織がそんな谷底に出現し
困窮する者たちは飲み込まれ
この小祠には咳止めに効くという伝説だけが残り
もはや此処を訪れる者は少ない



鮫ヶ橋せきとめ神
東京都新宿区南元町20