川崎東照宮跡2015年11月29日 15時17分45秒


東照宮は徳川家康を神として祀っている
天皇の祖神である天照大神への対抗か
東を照らす神
東照大権現として
現在も日本中に鎮座している

その数700社
明治以降廃絶されたものが多いとはいえ
北海道から九州まで
100を超える社が現存する

幕府の直轄地であった大坂にも
多分に漏れず東照宮は建立された
日光東照宮に引けを取らない
荘厳な造りであったそうだ

家康の命日4月17日には
権現祭りが執り行われ
大坂の人々は
大いに浮かれ楽しんだらしい

伝承では
慶応4年1868年鳥羽伏見の戦いで
敗退する幕府軍がご神体を持ち出し
後に忍東照宮(埼玉県行田市)に合祀したとある
さらに
明治6年1873年この大坂の川崎東照宮は
明治政府によって廃絶される

天皇集権の世を築くため
淫祠邪教を排斥し
仏寺を破壊する明治政府
家康など一掃すべしと息巻いたが
各地で武士の反乱が生ずる中
これ以上反感を買わぬようにと
日光東照宮に至っては
逆に保護することを
アピール材料にしていたようだ

大坂は武士の反乱など
気にする必要が無いため
川崎東照宮は
容赦なく廃棄処分となった

しかしどうだろう
300年もの間
大坂の人々はこの権現様に
慣れ親しんできたのだ
もともと徳川幕府の頃だって
政治的意図など
関係無い商人達だ

知ったことかと
大阪天満宮に石灯籠や御輿庫などを
豊中の東光院という寺に薬師如来像などを移した
ご神体だって伝承は怪しいものだ

北区にある豊崎神社の境内末社に
東照宮が存在するのを見つけた

大坂冬の陣で負傷した家康に
本庄村の村人がご飯を差し出す
その恩賞として家康の死後
本庄村に東照宮を祀るのを
幕府が許可した
と由緒にある

わかったようで
まるでわからない解説だが
明治政府の暴力的なやり方に
したたかな浪速の商人達は
俺たちの神様だぜと
ご神体をほとぼりの冷めるまで
どこぞへか隠すぐらいは
やったんじゃないだろうか

不思議なことに
この豊崎神社の東照宮と
川崎東照宮跡と大阪城の三点は
一直線上に
どうやら並ぶ

川崎東照宮跡

川崎東照宮跡
大阪府大阪市北区天満1-24大阪市立滝川小学校

川崎東照宮跡

川崎東照宮跡

東照宮(豊崎神社末社)
大阪府大阪市北区豊崎6-6-4

川崎東照宮跡