阿部野神社2015年07月12日 15時56分55秒


泥にまみれて俺たちは
穴を掘り土を運ぶ
上の方から声がする
槍を持たされ背中を押される
ここは何処だ
揃って進むこいつらは誰だ
俺は誰だ
奴らが迫ってくる
あれは俺か
俺が弓を引いて向かってくる
隣の男の首は飛び
俺の額を矢がえぐる
隣の男も俺も
死ぬ

阿部野神社の祭神は
北畠親房と顕家の親子
南北朝時代に南朝方で
大活躍した公卿であり武将である
顕家はイケメンで聡明なやつだったらしい
十代で参議として官職に就いている

この神社
創建されたのは意外に新しい
明治8年に地元有力者が小祠を建てたのに始まり
明治15年に正式な神社として認可された
徳川幕府が滅び
天皇を中心とした帝国主義の台頭
天皇に忠誠を誓った南朝の武将が
俄かに脚光を浴び始めたということだろうか

注目したいのは
この神社建立が国策的な強制行為ではなく
あくまで地元有志の発案であったということだ
時代の転換により一夜にして
反逆者が英雄となり神として持ち上げられる
そんな時代の空気が存在していた
ということかもしれない

此処から程近いところに
北畠顕家の墓が存在する
北畠公園の中にあるのだが
公園内で結構な敷地を占めており
どちらかというとこの墓の保存のために
公園を作った感のある場所だ

天王寺阿部野の地で
顕家は戦死したと由緒にあるが
実際はさらに南へ下った堺の石津が
戦死の地であると親父の親房も記している
元々由緒不明の将軍塚というのがこの地に在り
江戸時代の国学者が
顕家のものと比定したとのこと
なんだか胡散臭い感じがしてくるが

考えてみると
実は四天王寺から南の地域は
南朝の勢力圏であった
住吉大社も一時
南朝の後村上天皇の皇宮だったこともある
天王寺村や阿倍野村といった集落が点在し
都度戦に駆り出される名もなき大衆
しかし彼らは英雄達を信奉し
戦国時代から江戸時代と500年間
水面下で南朝へのシンパシーを継承してきた
ということではないだろうか
顕家の墓にしても
名を伏せ信仰の対象として
受け継がれ存在していたのかもしれない
そして幕府の時代は終わり
じいちゃん達から受け継いだ想いが
一気に噴出したのが
この神社建立の真実だと思えてならない

いつの時代でも
誰もが自分に相応しい環境を選んで
生きているわけではない
ただ目の前の日々と
折り合いをつけるべく戦っている
正しいか正しくないかなど
日々に埋没した中ではわからない
戦争の時代であれば
疑問を持つ間も無く
駆り出され死んでいく
そんな歴史にも残らない
膨大な数の名もなき大衆

憲法解釈だの安全保障だのと
議論甚だしいご時世
偉い学者先生が違憲やないかと言ってるのに
日本国憲法は蔑ろにされる
名もなき大衆である我々は
何を拠り所にすればいいのやら
きっと名もなき大衆である我々を
小馬鹿にしているに違いない
何にせよ
俺は俺の子供らを
戦争になんか
決して行かせたくない

阿部野神社

阿部野神社

阿部野神社
大阪府大阪市阿倍野区北畠3-7-20

阿部野神社

阿部野神社

北畠顕家の墓
大阪府大阪市阿倍野区王子町3-8北畠公園