甲大神社2020年05月06日 13時52分24秒


天慶3年 西暦940年 2月14日
平将門は藤原秀郷の放った矢で
顳顬を射抜かれ絶命した
吾こそは新皇であると
この関東の地で独立国家を築くことを宣言し
日本中を震撼させた男だ
それ以後1000年を超え
今日に至るまで
この国にそんな豪快な男は
一度も登場していない

リーダーを失い
残された一族郎党は
住み慣れた土地を捨て四散する
残党狩りは峻烈を極め
国を挙げての大捜索が行われた
遠くへ遠くへ遠くへ
関東には広く
落人の伝説が無数に残る

千葉県市川市にある甲大神社には
将門の兜を祀っているという伝承がある
そして武士がこの社の前を通ると
必ず落馬するのだという
一見意味不明な話が添えられているが
まるで将門が
残党狩りの追手から
守ってくれてることを伝えているように
私には思える

江戸川に沿ってこの辺りは
中世から製塩業が盛んであったらしい
大和田という地名が残っているが
中世のある時代に大和田村は
稲荷木村と河原村の間の地に
塩焼稼業の為
全村集団移転した
という記録がある

将門の乱から僅か50年程
この大和田村に兜宮
現在の甲大神社が勧請されている

この2つの事柄は
決して無関係ではないだろう
恐らくは落人あるいは
将門に何らかの所縁のある集団が
職業を得て定住を図った
と考えていいのではないだろうか

将門に関連する寺社や史跡は
日本中に無数に存在する
もちろん調伏派のものも多数あるが
シンパもやたら多くある
この甲大神社もその一つであろう
将門という男は
それほど信頼と敬意を抱かせ
人々を惹きつけてやまない
リーダーであったということだ

危機的状況の中で
私達の行く道を
明確に自分の言葉で語ってくれる
そんなリーダーを求めることは
果たして大それた願いなのかしら
人の悲しみのわからないぼんぼんでは
そりゃあ無理だぜ

甲大神社

甲大神社

甲大神社

甲大神社
千葉県市川市大和田2-5-4

不知森神社2018年05月27日 18時24分08秒


もうどのくらい
此処にいるのか
何時から
此処にいるのか
俺はもう
こんな所にはいたくない
どうして
どうすれば
此処を出られるのか
呪いにでも掛かっているのか
知らぬ間に犯した罪の罰なのか
それとも
俺の頭が
どうかしてしまったのか

八幡の薮知らずと呼ばれる此の地は
往時から入ってはいけない禁足地として
全国に知れ渡っていた場所だそうだ
一度入ったら出られない
入れば必ず祟りがあると

駅から僅かに5分も歩くと
突如現れる鬱蒼とした竹藪
入ってはいけないという
タブーを
誰もが今でも守っている

知ってか知らずか
ペットボトルが中に捨てられていたりするが
捨てた人間はきっと
家に帰ってから熱を出したり
自転車がパンクしたりしたに違いない

市川市教育委員会が立てた説明板には
入ってはいけない理由が諸説あると書いてある
近くの八幡宮の行事の
魚を放す池の跡で
行事が途絶えた後も
入ってはならぬことだけが伝えられたと
訳のわからない結論付けをしている

諸説のもう一つに
将門の伝説がある

平将門平定のおり
平貞盛が八門遁甲の陣を敷き
死門の一角を残したので
此の地に入ると必ず祟りがある
というものだ

これもよくわからないのだが
将門打倒のため
此処に仕掛けを施したってことか
都合よく将門が此処に来ないことには
有効じゃないような気がするが
しかも将門が討たれた後も
仕掛けを解くのを忘れちゃって
今に至るということだろうか
貞盛しか解き方を知らねえんだよ
などと皆で溜息をついたのだろうか

これに関しては
平将門魔方陣という本で加門七海さんが
さらりと謎を解いている

薮知らずから東北
つまり鬼門の方角へ
辿っていくと
茨城県稲敷郡美浦村の辺りに
ぶつかるのだそうだ
そこは将門が守護神とした神仏を
将門自ら祀った場所で
つまりこの薮知らずは
将門の守護神を
今でも死門で封じ込め
将門の復活を或いは祟るのを
防御する
謂わばインフラシステムであったのだ

そりゃ疎かに破壊したり
好立地マンション建てたりは出来ないよね
行政サイド或いは国か?もきっと
秘密裏にこの事が
延々と受け継がれているに違いない

放射性廃棄物を10万年間埋めておく時も
この禁足地のシステムを使うと良い
その意味が忘却されてから後も
人々はきっと
そこには近づかないように
するだろうから

不知森神社

不知森神社

不知森神社

不知森神社
千葉県市川市八幡2-8

朝日神明社〜将門、再び2015年06月01日 22時28分37秒


将門は分もわきまえず
掟を忘れ朝廷に反逆した
その科は重く
帝みづからが天誅を下す

国の公式な行政文書で
正式に反逆者として位置づけられた平将門
事の始まりは
単なる一族の内紛に過ぎなかった

父親が早世したのに付け込まれ
伯父達に不当に所領を奪われたりと
非道い扱いを受けたらしい

将門は強かった
待ち伏せされ戦いを挑まれた将門は
彼らを撃退し
その勢いで伯父の国香の本拠地を
国香もろとも焼き払ってしまう

国香の息子貞盛は
戦いを抜け出し京に上り
しゃあしゃあと
太政官に将門の所業を訴える
いい子ちゃんぶってすぐに先生にチクる
あの感じだな

朝日神明社は平貞盛が創建したと伝わる
中央で出世を狙ういい子ちゃん貞盛は
これはいいネタだと
有る事無い事吹聴し
ポジション向上を図ったのかもしれない
浪速の地に神社を建てましょうと
言ったかどうかまでは定かではないが

熊野街道の王子社であったとも伝わる
上町台地聖地ラインの
重要ポイントであった事は間違いない
そこにおける将門の伝承を
人々はどう受け止めたのだろうか

時代は下って秀吉の時代
秀吉は大阪城築城に当たって
暴力的に神社を移動させる
だがこの神明社は動かさなかった
それどころか篤く崇敬したとも伝わる
秀吉の朝廷へのアプローチを考えると
朝敵を調伏した神社ですよと
媚を売る材料だったのかもしれない

明治40年
神明社は他の神社と合祀され
場所も遠く移された
社運傾き維持困難という理由だが
今一つよくわからない
奇しくも同年
東京では渋沢栄一と織田完之による
将門復権が盛んとなっていた
大阪商人達が中央経済界へおもねいた
というのは考えすぎだろうか

誰にへつらうこともない将門の生き方
だけど大阪の商人文化には
まるで必要とされなかったようだ

突然に革新的なリーダーが現れて
必死で問題解決を叫んでも
彼らにはその問題が理解できないのだ
そもそもの前提を覆そうなんていう気質は
この商都には存在しないのかもしれない
そして今やそれは決して
この街に限ったことではない

朝日神明社

朝日神明社

朝日神明社
大阪市此花区春日出中1-6-21

朝日神明社

朝日神明社跡
大阪市中央区神崎町2-30南大江公園

鎧神社〜将門調伏③2015年03月15日 17時05分48秒


「地図を見れば誰でもわかることだが、線路はその神社を軸に、見事な弧を描いているのだ。」(「平将門魔法陣」加門七海)

この神社には将門の鎧が埋まっている
首を失った将門の遺骸から
何者かが鎧を引き剥がし
この地まで運んだ

将門を慕う者の仕業とも
俵藤太秀郷が祟りを恐れ自ら埋めたとも
真偽の程は分からないが
兎に角ここの境内を掘れば
将門の鎧が出てくるに違いない

祭神は平将門
この辺りは古くは柏木村と呼ばれ
恐らくは長閑な田園地帯
延々と将門への信仰が
静かに深く続いてきたのだろう

確かに地図を見ると
異様なほど真っ直ぐに突っ走ってきたJR中央線は
この鎧神社を軸に唐突にカーブを始めるように見える
著者は言う
徳川幕府が構築した将門の霊力による結界を
明治政府が鉄路によって分断したと
中央線の終点高尾から
鉄路に天皇霊を乗せて
日々将門に睨みを利かせているのだと

こんな話をすると
あなたは鼻でせせら笑う
それは都市伝説だねと
トイレの花子さんなんかと一括りにする

でも少し待ってくれ
たかだか100年前
明治の始めまで
陰陽寮という行政機関が存在し
呪術を行う技術系の官僚が活躍していた
陰陽師として安倍晴明が有名だが
起源は7世紀飛鳥時代にまで遡る
これはオカルトでもなんでもない
この日本で千年以上も続いた
国家公務員の真面目な仕事であったのだ

鉄道を敷くにしても
さて具体にどこをどうしましょうかといった段階で
様々なファクターがはたらく
地元有力議員によって新幹線の路線が捻じ曲げられる
なんて話は至極当たり前の話だ
徳川幕府が築いた将門の結界を破壊すべく
明治政府が路線を捻じ曲げたというのは
決して妄想のレベルではないんじゃなかろうか

日本人はみんな真面目だから
今目の前にある世界を前提に
これはできるこれはできないと
訳知り顔で偉そうに宣われたりしますが
時に歴史に学ばなきゃ
真実なんて見えやしない
真っ直ぐな中央線が鎧神社を軸に急激にカーブする
そのリアルを実際にその目で見るべきだ

明治政府も天皇も将門を恐れた
その恐れは今も続いている
毎日私達を鮨詰にした電車で
結界を分断し続けることで
将門調伏は続いている
それでも誰も完全に排除はできない
逆賊である将門の首塚を
未だ皇居のそばから
遠ざけることすらできずにいる

ある夜
酔っ払った上司と大手町の首塚へ
おもむろに横で柏手を打ち始めたので
お言葉ですがこれはお墓ですので
柏手はふさわしくない旨を具申
こ、これは祟られると尋常でなく取り乱す上司
将門はそんな器の小っちゃな男じゃないっすよと私
そのとおり上司は今日も無事健在だ

鎧神社

鎧神社

鎧神社
東京都新宿区北新宿3-16-18

将門首塚

将門首塚
東京都千代田区大手町1-2-1

烏森神社〜将門調伏②2015年03月07日 16時10分55秒


はい
いまSL広場の所にいるんですが
冷汗と脂汗を垂らし
携帯で話しながら
私も
隣の男も
なかなか相手を見つけられずにいる

それはサラリーマンだからね
上が言うんだからそうなんだろうさ
自虐と諦念がアルコールで花開く
明日のためにと言い訳し
痛みと思考を麻痺させる

黒いスーツの男達が
夕暮れの新橋駅前に群れ集う
掴むものは少ないけれど
いつかきっと
いつかきっとと

JR新橋駅烏森口から程近く
烏森神社がある
意図はわからないが
鉄筋コンクリート製の
斬新的なデザインの神社だ

此処も平将門の調伏に関係する神社である
俵藤太秀郷が戦勝の記念に
此の地に稲荷社を勧請したのが始まりだという
知ってか知らずか立地からか
参拝する人は後を絶たない

東京には神田明神や筑土神社など
将門を祭神とする神社がある一方
将門調伏を掲げる神社もまた多い
江戸っ子は将門が好きなんて
短絡的な理解では足りないようだ

誰だって先ずは自分の利を考える
悪政と言われる時代でも
そこから利を得ていた人が
大多数存在するのは当然だ

痛みに耐え
だけどしたたかに
自分の役割を粛々と果たす
そこそこの生活の継続
それを望むのもまた正しい

でも本当は
それじゃあ満足できない
理不尽な仕打ちに
馬鹿げた世界に
欲なのか怒りなのか
将門の登場に
そんな大多数の人々は
変革を期待する

東京の街に相反する
二大勢力の神社が混在する姿は
歴史の中に埋もれた
大多数の人々の生き様を浮かび上がらせ
それはまた
歴史に埋もれゆく
現在を生きる我々の生き様に
重なるようにも見える

かつて此処は
波が打ち寄せる砂浜と
烏が群れ集う松林
黒いスーツの男達が
今日も此処に群れ集う

烏森神社

烏森神社

烏森神社

烏森神社
東京都港区新橋2-15-5