磐井神社2019年02月17日 19時01分16秒


それは慶長五年(1600年)のこと
家康は江戸城を出立
一行は品川の海岸沿いに差し掛かる
鬱蒼とした森の中には八幡神社
その時神社の前で
一行を呼び込む声が上がった

見ると一軒の茶店があり
女がずらりと八人並んで立っている
真っ赤な手拭いを頂き
帯もまた朱色で統一
若く美しい女達は
男達を茶で持て成した

家康は駕籠の内より様子を伺う
ふと女達の中に袴を着けた若い男が
蹲っているのを目にする
あの男は何者だ
男は答える
名は庄司甚内
遊女の長キミノテテであると

その三年後に
家康は征夷大将軍となり
江戸幕府が開府
猛烈な勢いで城下の建設が進む
申請と承諾の処理
行政の仕事はいつの世も大変だ
そんな中
一風変わった申請が目に付いた

江戸の街に新たに
遊廓を公許願うというものだ
その主旨は

一つ
遊女を買い遊ぶ者は仕事もしないで
金の続く限り店に居続けて好色に耽る
店側も金が支払われれば幾らでも
留め置き馳走を振る舞う
だから
今バラバラにある遊女屋を
一箇所に集めて
しかも居られるのは
一夜限定と決めてしまいましょう

一つ
貧しい者からその娘を養子とし
育てた挙句は遊女屋へ売り渡すを目的とする
不逞な輩が横行している
だから
一箇所に集めて養子娘の素性を見極めましょう

一つ
一箇所に集めることで諸々の悪事を働く
不逞な輩を排除可能ですよ

というもの
バラバラに散在し
悪人の巣窟と化している
今の遊女屋を一箇所に集約し
行政の元で管理すべしと訴える申請

家康は聞いた
こんなことを言ってきたのは誰だ
名は庄司甚内
家康は言った
キミノテテか

関ヶ原へ向かう一行を持て成したのは
未だ開府以前であり
家康がきっと天下を取るであろうと
アプローチを図ったのであれば
甚内というこの男
なかなかの才覚ではないだろうか
その時既に
一箇所に集約する遊廓の青写真を
あるいは頭に描いていたのかもしれない

申請承諾の先には当然
実施のノウハウを有する者が必要で
遊女の長を名乗る男に
役目は課されたという訳だ

完成したのが吉原遊郭
当時は未だ今の日本橋辺りに在ったのだが
その隆盛はご承知の通り
その後
昭和33年まで公許遊廓の歴史は続き
その間様々な文化を生み
姿を変えて発展していった訳だが

誰も思いつかなかったことを
つまり0から1を生み出せる知恵者は
そうそう世に出てくるものじゃない
またそれをやってみろとジャッジする
ジャッジできる人もまた多くはないだろう
甚内の作ったベースに基づき
いかにも私がやりましたといって
偉そうに能書き垂れてた人が
きっと一杯いたんだろうな
いつの世もきっと
そんなもんだよな

甚内が茶店を営んでいた八幡神社は
現在は磐井神社という名前になっている
この神社に伝わる振ると鈴の音がする鈴石が
鈴ヶ森の地名の由来と由緒書きにあったが
実は甚内の店の表の暖簾に鈴が付いていて
客が来ると音でわかる仕組みになっていたそうで
こっちが鈴ヶ森の本当の由来だ
と思う
これもきっと彼の知恵の為せる技ではないか

鈴ヶ森といえば刑場跡
開設が1651年なので
甚内は既に死去しているが
牛馬の死体置き場に祀られる馬頭観音が
同地に今でもあることと
当然処刑された死体の処理を行う役目の
非人達が嘗ては居た訳で
また新吉原には隣接して
非人溜があったり
距離を置かず穢多村があったのを見ても
歴史に埋もれてしまった賎民の勢力の中に
甚内もまた居たのかもしれない

磐井神社

磐井神社
東京都大田区大森北2-20-8

磐井神社

鈴ヶ森刑場
東京都品川区南大井2-7-3

留魂祠2017年07月23日 17時53分59秒


西郷は言う
人々の上に立つ者は
己を慎み、品行正しく、驕奢を戒め、節倹を勉め、
人々の標準となり
人々の喘ぎを苦しみを
見つめ続けねばならぬのだと

西郷は嘆く
地位を得た奴らは日夜
家屋を飾り、身を飾り、美妾を抱え、蓄財を謀り
宴に興じるばかりであると

西郷は涙する
これでは天下に対し
戦死者に対し
面目が立たぬと
誠にもって
申し訳が立たぬと

西南戦争が幕を閉じ
世の中が落ち着きを取り戻した頃
勝海舟は
東京府葛飾郡の浄光寺境内に
西郷を祀る祠を自費で建立した

パンダとセットになってしまった銅像などとは違い
ひっそりと祀られたものらしい
勝先生の胸中は
如何程であったのだろうか

たかだか150年前
同じ日本人同士が戦争を繰り返し
殿様は引き摺り下ろされ
現在に繋がる政治体制が築かれた
西郷さんが150年前に言っていた
人々の上に立つ人の標準など
未だ現れた例がない

政治家だけに限らない
企業などあらゆる組織においても
真面目に実務に勤しむ者を
蔑ろにしちゃいけない
社員より株主のほうが大事なんて考え方
どうかしてるだろ
駄目なものはいずれ破壊される
日本が未だ滅びず済んでいるのは
その始まりに西郷さんがいたからなのだ

経済活動なんて
たかだか
美味いもんが食いたいだの
あの女を抱きたいだのといった
個々の欲が原動力になっているだけで
大したことではない
だから仕事が辛い辛いと
病気になったり自殺したりするなんて
つまらないから止めたほうが良い

勝海舟没後の大正2年に
この留魂祠は大田区の洗足池に移された
勝夫妻の墓と並んで建っている

西郷隆盛のイメージとは懸け離れた小さな祠
だけど
どうやら僕らは
西郷さんのイメージを
あまりにも膨らませ過ぎてしまっているようだ
お馴染みのあの顔だって
誰かの作為のモンタージュだ
ましてや浴衣で犬の散歩なんかしたことないそうだ
勝海舟がひっそりと
小祠を建立せざるを得なかったところに
真実があるような気がする

留魂祠

留魂祠

留魂祠

留魂祠
東京都大田区南千束2丁目3

穴守稲荷神社2014年07月12日 18時42分29秒

進駐軍が手に銃を持ち
出て行けと
48時間以内に出て行けと
赤ん坊からじいちゃんまで有無も言わせず
布団やら箪笥やら運び出し
海老取川を渡った

住み慣れた家は
大勢の人夫によって一気に破壊される
あいつ等も日本人のくせに
穴守稲荷神社も破壊された
門前の赤鳥居だけが
何故か残された

1945年9月13日
GHQは羽田の東京飛行場の引き渡しを申し入れ
海老取川以東の住民に対し
48時間以内の退去を命じた
約1200世帯、3000人余が住み慣れた家を離れた

あなたは此処に住んではいけません
すぐに出て行ってくださいと言われるなんて
今の僕等に想像できるだろうか
しかし現在
東京電力福島第一原子力発電所事故により
避難した人は13万人
住み慣れた家を離れた人がいる現実

赤鳥居はその後撤去を試みるも
ロープが切れて作業員が死ぬなど
不思議な事故が相次ぎ
長い間空港敷地内に
場違いにポツンと残され
ようやく1999年に移設が行われた

弁天橋の袂に移設された赤鳥居には
平和と書かれた扁額が掲げられている
俺は正しいと胸を張って
平和を訴えるその様はなんだか
あざとくて
いただけない

日本を訪れた外国人が
空港の駐車場に何故だか立ってる鳥居を見て
ホワッツザット?などと問うた時に
実はカクカクシカジカと説明する事で
色んな事を考えてもらえると思うのだが

これでは
どこぞの国が建てた従軍慰安婦の銅像と変わらない
動かすことが出来ないのですと
不気味さと不可解さを孕んで
ただそこに残していた方が
智慧あるやり方だったと思うのだが




穴守稲荷神社
東京都大田区羽田5-2-7