秋葉神社 ― 2014年03月02日 15時42分27秒
リュックを背負ったデブ
メイド服でビラを配る女
外人 中国人 韓国人
大多数のどおってことない普通の奴等
秋葉原には人が集まる
コールタールのように
そこにびっしりと溜まる
明治2年の大火の後
天皇の勅命で現在の秋葉原の地に
火除けの神である秋葉神社が建立される
永照皇太后(明治天皇御母)の
思し召しによるものらしい
秋葉原の名はそれに因む
しかしその後
明治21年鉄道駅設置のため
台東区に移され現在に至る
明治天皇の母親が大火に見舞われた東京を憂い
火除けの神を市街地に勧請せよと言ったなんて
美しい話と思わせるが
永照皇太后が赤坂離宮に遷御されたのは明治5年
そのようなご配慮が果たして
されたものでありましょうか
そのようなご配慮の下に建立された由緒高き神社を
鉄道駅を作るからと簡単に
遠くへ追いやることなど
できたものでありましょうか
江戸時代
将軍が上野の寛永寺へ墓参する為の
決まった道があった
それは御成道と呼ばれ
江戸城から神田橋を渡り本郷通りを北上
神田川にぶつかるあたりに
筋違御門という門と橋があった
そして今の秋葉原を抜け
上野広小路に入り寛永寺へと至る
明治天皇は明治2年に東京へ移ってきた
大政は奉還されたとはいえ
徳川の祖先達の霊が怨霊となって襲ってくるのを
彼は恐れたのではないだろうか
代々の将軍達は何度も通った御成道を覚えている
奴等はこの道を通って江戸城へやって来るに違いない
彼は徳川の怨霊の侵入を防ぐ目的で
此処に神社を建てたのだ
そもそも建立当初は秋葉神社とは呼ばれておらず
江戸城紅葉山から
鎮火社と呼ばれる神社を移したという
本当は何の神様だったのか今となっては謎であるが
そして
その後の鉄路の設置によって強力な封鎖を実現
用済みとなった鎮火社は
さらに忌むべき方角へと移転された
徳川の痕跡を完全に叩き潰し
抹消することもできただろうが
それでは民衆を掌握する事は出来ないだろう
分りにくい方法で徳川を押さえつける方策
それは現在でも継続中である
秋葉原では
あの不自然な中央線のカーブと
京浜東北線と総武線の作り出す三角形の中に
筋違御門が今日だって
閉じ込められているのだ
俄には信じ難い話かもしれないが
明治天皇の即位の際には讃岐へ勅使を遣わし
史上最強の怨霊である崇徳上皇の御霊を
京都に帰還させ白峯神社を建立したという
公式記録が残っている
日本はそんな国なのだ
御成道を
江戸城へ向かって突き進む徳川の怨霊達は
此処から先へは進めない
既に140年以上に亘って
そいつらはコールタールのように
此の地にびっしりと溜まり続けている
メイド服でビラを配る女
外人 中国人 韓国人
大多数のどおってことない普通の奴等
秋葉原には人が集まる
コールタールのように
そこにびっしりと溜まる
明治2年の大火の後
天皇の勅命で現在の秋葉原の地に
火除けの神である秋葉神社が建立される
永照皇太后(明治天皇御母)の
思し召しによるものらしい
秋葉原の名はそれに因む
しかしその後
明治21年鉄道駅設置のため
台東区に移され現在に至る
明治天皇の母親が大火に見舞われた東京を憂い
火除けの神を市街地に勧請せよと言ったなんて
美しい話と思わせるが
永照皇太后が赤坂離宮に遷御されたのは明治5年
そのようなご配慮が果たして
されたものでありましょうか
そのようなご配慮の下に建立された由緒高き神社を
鉄道駅を作るからと簡単に
遠くへ追いやることなど
できたものでありましょうか
江戸時代
将軍が上野の寛永寺へ墓参する為の
決まった道があった
それは御成道と呼ばれ
江戸城から神田橋を渡り本郷通りを北上
神田川にぶつかるあたりに
筋違御門という門と橋があった
そして今の秋葉原を抜け
上野広小路に入り寛永寺へと至る
明治天皇は明治2年に東京へ移ってきた
大政は奉還されたとはいえ
徳川の祖先達の霊が怨霊となって襲ってくるのを
彼は恐れたのではないだろうか
代々の将軍達は何度も通った御成道を覚えている
奴等はこの道を通って江戸城へやって来るに違いない
彼は徳川の怨霊の侵入を防ぐ目的で
此処に神社を建てたのだ
そもそも建立当初は秋葉神社とは呼ばれておらず
江戸城紅葉山から
鎮火社と呼ばれる神社を移したという
本当は何の神様だったのか今となっては謎であるが
そして
その後の鉄路の設置によって強力な封鎖を実現
用済みとなった鎮火社は
さらに忌むべき方角へと移転された
徳川の痕跡を完全に叩き潰し
抹消することもできただろうが
それでは民衆を掌握する事は出来ないだろう
分りにくい方法で徳川を押さえつける方策
それは現在でも継続中である
秋葉原では
あの不自然な中央線のカーブと
京浜東北線と総武線の作り出す三角形の中に
筋違御門が今日だって
閉じ込められているのだ
俄には信じ難い話かもしれないが
明治天皇の即位の際には讃岐へ勅使を遣わし
史上最強の怨霊である崇徳上皇の御霊を
京都に帰還させ白峯神社を建立したという
公式記録が残っている
日本はそんな国なのだ
御成道を
江戸城へ向かって突き進む徳川の怨霊達は
此処から先へは進めない
既に140年以上に亘って
そいつらはコールタールのように
此の地にびっしりと溜まり続けている


秋葉神社
東京都台東区松が谷3-10-7
頑強な赤煉瓦の壁際の通りに
千代田区が建てた看板が立っている
御成道が此処にあったんだよと主張する事で
この道の封鎖を完全なものにしている
看板は赤煉瓦に向かって立っている
つまり上野寛永寺に向かって立っている
交通博物館の跡地に最近建ったビルの脇には
かつての筋違御門の絵が飾られ
此処に筋違御門があったんだよと主張している
門のあった場所を踏みつけて中央線は走る



御成道の看板
東京都千代田区神田須賀町1丁目あたり
第六天榊神社〜鳥越幻影④ ― 2013年07月07日 13時48分14秒
鳥越神社のある地は遠い過去
浅瀬に浮かぶ島であった
河が運ぶ土砂によって
周りが陸地となり
小高い丘が形成された
その丘にいつしか
日本武尊の東征の伝説とともに
三つの神社が置かれる
白鳥明神(鳥越神社)
熱田明神
そして第六天
日本武尊が第六天を祀ったという説もあるが
後世のこじつけであろう
とにかく江戸以前の住民に
熱烈に支持されていたことは確かだ
西からやってきた徳川幕府は
御蔵建設のため鳥越の丘を切り崩し
墨田川の岸を埋め立て
現在の日本橋あたりにいた弾左衛門と
その配下を鳥越に強制移住させる
さらに徳川の呪術師は
江戸城守護を目的に
平将門による結界を構築すべく
鳥越神社に将門の伝説を付与する
一方で第六天は蔵前に移されている
おそらく徳川の呪術師は
第六天のパワーを恐れたに違いない
あの織田信長が
我こそは第六天魔王なり
と豪語するほどの大魔王である
将門と同居させるなど何が起こるか想像もできない
その後
第六天は蔵前から柳橋へ移り
明治に榊神社と名を変え
現在の地に落ち着いたのは
昭和三年のことである
榊神社の紋は七曜紋
北斗七星を表しているらしい
平将門や千葉氏の九曜紋のバリエーションだという
鳥越神社の紋も同様の七曜紋
案外
隠された将門の伝説は
第六天とともに
ここに在るのかもしれない
浅瀬に浮かぶ島であった
河が運ぶ土砂によって
周りが陸地となり
小高い丘が形成された
その丘にいつしか
日本武尊の東征の伝説とともに
三つの神社が置かれる
白鳥明神(鳥越神社)
熱田明神
そして第六天
日本武尊が第六天を祀ったという説もあるが
後世のこじつけであろう
とにかく江戸以前の住民に
熱烈に支持されていたことは確かだ
西からやってきた徳川幕府は
御蔵建設のため鳥越の丘を切り崩し
墨田川の岸を埋め立て
現在の日本橋あたりにいた弾左衛門と
その配下を鳥越に強制移住させる
さらに徳川の呪術師は
江戸城守護を目的に
平将門による結界を構築すべく
鳥越神社に将門の伝説を付与する
一方で第六天は蔵前に移されている
おそらく徳川の呪術師は
第六天のパワーを恐れたに違いない
あの織田信長が
我こそは第六天魔王なり
と豪語するほどの大魔王である
将門と同居させるなど何が起こるか想像もできない
その後
第六天は蔵前から柳橋へ移り
明治に榊神社と名を変え
現在の地に落ち着いたのは
昭和三年のことである
榊神社の紋は七曜紋
北斗七星を表しているらしい
平将門や千葉氏の九曜紋のバリエーションだという
鳥越神社の紋も同様の七曜紋
案外
隠された将門の伝説は
第六天とともに
ここに在るのかもしれない



第六天榊神社
東京都台東区蔵前1-4-3
鳥越神社〜鳥越幻影③ ― 2013年07月05日 22時50分58秒
天慶三年(940年)二月
俵藤太秀郷(藤原秀郷)の放った矢が
将門のこめかみを貫いた
新皇を宣言し朝敵とされた平将門の首は
その後京都へと運ばれる
都で晒された将門の首は しかし
俺を殺すことなど出来るかと喋り出し
突如豪快に嗤いながら東に向かって飛び始める
岐阜の辺りで一度射落とされるが
それでも負けない将門
関東の地で首は白鳥明神の上を飛び越える
飛び越えたので後、鳥越明神と呼ばれるようになる
首が着地したのが現在の大手町1丁目
首塚のある場所である
体はバラバラにされ鎧や兜などと各地に埋められる
そしてここ鳥越神社には
将門の手が埋まっている
鳥越神社の祭神は日本武尊と家康と
藤原氏の祖神である天児屋命アメノコヤネノミコト
将門の名前は無い
そして
得体の知れない伝説もまた
オフィシャルな由緒書きには
書かれていない
俵藤太秀郷(藤原秀郷)の放った矢が
将門のこめかみを貫いた
新皇を宣言し朝敵とされた平将門の首は
その後京都へと運ばれる
都で晒された将門の首は しかし
俺を殺すことなど出来るかと喋り出し
突如豪快に嗤いながら東に向かって飛び始める
岐阜の辺りで一度射落とされるが
それでも負けない将門
関東の地で首は白鳥明神の上を飛び越える
飛び越えたので後、鳥越明神と呼ばれるようになる
首が着地したのが現在の大手町1丁目
首塚のある場所である
体はバラバラにされ鎧や兜などと各地に埋められる
そしてここ鳥越神社には
将門の手が埋まっている
鳥越神社の祭神は日本武尊と家康と
藤原氏の祖神である天児屋命アメノコヤネノミコト
将門の名前は無い
そして
得体の知れない伝説もまた
オフィシャルな由緒書きには
書かれていない


鳥越神社
東京都台東区鳥越2-4-1
加賀美稲荷〜鳥越幻影② ― 2013年07月02日 21時56分30秒
家康が江戸入城して間もない頃
馬が脚を負傷したので
弾左衛門を呼び出し
猿飼を手配するよう申しつけた
今でこそ猿回しなんて
思い出したように時々テレビで映される
どおってことない余興に過ぎないが
昔は馬の脚を治す祈祷の意味を持ち
猿飼は社会的、宗教的に
ある種のステータスが与えられていた
家康の下に連れて来られた猿飼の名は
加賀美太夫
彼はたくさんの猿と
刑場で死体の処理をする非人達と
彼等を支配する弾左衛門と
鳥越の地に住んでいた
江戸の古地図でもサルヤ丁の名前が確認できる
彼の住居跡を示すのだろう現在この地に
稲荷神社が居心地悪そうにポツンと建っている
狭い境内にいて
猿による呪術も
ケガレを扱う者への畏怖も
既に無効となった時代に
僕等はここで
何を見たらいいのだろう
馬が脚を負傷したので
弾左衛門を呼び出し
猿飼を手配するよう申しつけた
今でこそ猿回しなんて
思い出したように時々テレビで映される
どおってことない余興に過ぎないが
昔は馬の脚を治す祈祷の意味を持ち
猿飼は社会的、宗教的に
ある種のステータスが与えられていた
家康の下に連れて来られた猿飼の名は
加賀美太夫
彼はたくさんの猿と
刑場で死体の処理をする非人達と
彼等を支配する弾左衛門と
鳥越の地に住んでいた
江戸の古地図でもサルヤ丁の名前が確認できる
彼の住居跡を示すのだろう現在この地に
稲荷神社が居心地悪そうにポツンと建っている
狭い境内にいて
猿による呪術も
ケガレを扱う者への畏怖も
既に無効となった時代に
僕等はここで
何を見たらいいのだろう


加賀美久米森稲荷神社
東京都台東区浅草橋3-16
甚内神社〜鳥越幻影① ― 2013年06月23日 19時06分27秒
怪力無双の大泥棒、向坂甚内は
瘧オコリ(マラリア)でへろへろのところを
捕縛された
オコリにさえならなければ、畜生
と甚内は悔やみ
死んだ後俺はオコリの神になってやる
と処刑の前に叫んだという
処刑場は鳥越に在った
家康の入城後
日本橋に在った処刑場を鳥越に移している
処刑場の周りには
穢多頭の弾左衛門と非人頭の車善七の居住地が置かれ
彼等が刑の執行と後始末とを担った
甚内の強靭な体は
並の刀では切ることが出来ない
甚内は磔にされ
自分の所有物であった槍で突かれ
息絶える
その後罪人を引き回す際
弾左衛門配下の者が
その槍を担いで先頭に立つのが通例となった
鳥越川の岸に甚内の墓が作られ
オコリが治ると参詣者が後を絶たず
墓はいつしか神社となって今に至る
貧しく虐げられた人々にとっては
怪力無双の大泥棒が
最高のヒーローだったのかもしれない
瘧オコリ(マラリア)でへろへろのところを
捕縛された
オコリにさえならなければ、畜生
と甚内は悔やみ
死んだ後俺はオコリの神になってやる
と処刑の前に叫んだという
処刑場は鳥越に在った
家康の入城後
日本橋に在った処刑場を鳥越に移している
処刑場の周りには
穢多頭の弾左衛門と非人頭の車善七の居住地が置かれ
彼等が刑の執行と後始末とを担った
甚内の強靭な体は
並の刀では切ることが出来ない
甚内は磔にされ
自分の所有物であった槍で突かれ
息絶える
その後罪人を引き回す際
弾左衛門配下の者が
その槍を担いで先頭に立つのが通例となった
鳥越川の岸に甚内の墓が作られ
オコリが治ると参詣者が後を絶たず
墓はいつしか神社となって今に至る
貧しく虐げられた人々にとっては
怪力無双の大泥棒が
最高のヒーローだったのかもしれない


甚内神社
東京都台東区浅草橋3-11-5
最近のコメント