高津宮2015年07月04日 16時48分19秒


僕は君と青菜を摘んでいる
二人きりでちょこんと腰を落として
僕は君と青菜を摘んでいる
君はきっと僕にこの青菜の入った
お吸い物を作ってくれる
僕は君とここで青菜を摘んでいる
もう楽しくてたまらないのさ

吉備国にクロヒメという美人がいる
情報を得た美人好きの仁徳天皇は
すぐにクロヒメを宮中へ呼び寄せた
激怒したのは皇后イワノヒメ
クロヒメに嫌がらせの限りを尽くし
嫌になって逃げるクロヒメの船まで妨害し
クロヒメは泣く泣く歩いて帰郷する

クロヒメが忘れられない仁徳天皇
皇后イワヒメに
ちょっと淡路島に行ってくるぜと嘘を言い
クロヒメのいる吉備国まで行って
青菜を摘んだり飯を食ったり歌を詠んだりと
浮き浮きした時間を過ごす

古事記や日本書記では
仁徳天皇はやたら女好きで
皇后イワヒメは強烈に嫉妬深い女として記される
国史編纂の中で
わざわざそれを記述する意味とはなんなのだろうか
案外時の天皇が
ほらあの仁徳天皇だって浮気ばっかしてたんだぜとか
イワノヒメみたいにお前は嫉妬深いなぁなどと
都合よく言い逃れするツールだったのかもしれない

仁徳天皇は難波の地に高津宮を置き
政治を行ったと伝わる
今でも神社として残る高津宮や東高津宮が
その名残なのだろう
場所の変遷はあるし
推定も困難ではあるが
上町台地上の
ざっくりここら辺にそれは確かに在ったのだ

仁徳天皇は高い山から下々を臨み
家々から煙が上がってないのを見て
皆が困窮しているのだと嘆き
この先三年間は無税にするという
日本史上稀に見る政策を断行する
自分の宮殿が雨漏りしても
改修工事など発注せず
器で雨粒を受けたりと
じっと我慢して過ごすという聖人ぶり
現代の行政も少しは考えていただきたいものだ

さて聖人だけど女好きの天皇と
強烈に嫉妬深い皇后との結末は
どうなったのかはよくわからないが
この高津宮には今でも
夫婦が並んで
仲良く祀られている

高津宮

高津宮

高津宮

高津宮
大阪府大阪市中央区高津1-1-29

阿部野神社2015年07月12日 15時56分55秒


泥にまみれて俺たちは
穴を掘り土を運ぶ
上の方から声がする
槍を持たされ背中を押される
ここは何処だ
揃って進むこいつらは誰だ
俺は誰だ
奴らが迫ってくる
あれは俺か
俺が弓を引いて向かってくる
隣の男の首は飛び
俺の額を矢がえぐる
隣の男も俺も
死ぬ

阿部野神社の祭神は
北畠親房と顕家の親子
南北朝時代に南朝方で
大活躍した公卿であり武将である
顕家はイケメンで聡明なやつだったらしい
十代で参議として官職に就いている

この神社
創建されたのは意外に新しい
明治8年に地元有力者が小祠を建てたのに始まり
明治15年に正式な神社として認可された
徳川幕府が滅び
天皇を中心とした帝国主義の台頭
天皇に忠誠を誓った南朝の武将が
俄かに脚光を浴び始めたということだろうか

注目したいのは
この神社建立が国策的な強制行為ではなく
あくまで地元有志の発案であったということだ
時代の転換により一夜にして
反逆者が英雄となり神として持ち上げられる
そんな時代の空気が存在していた
ということかもしれない

此処から程近いところに
北畠顕家の墓が存在する
北畠公園の中にあるのだが
公園内で結構な敷地を占めており
どちらかというとこの墓の保存のために
公園を作った感のある場所だ

天王寺阿部野の地で
顕家は戦死したと由緒にあるが
実際はさらに南へ下った堺の石津が
戦死の地であると親父の親房も記している
元々由緒不明の将軍塚というのがこの地に在り
江戸時代の国学者が
顕家のものと比定したとのこと
なんだか胡散臭い感じがしてくるが

考えてみると
実は四天王寺から南の地域は
南朝の勢力圏であった
住吉大社も一時
南朝の後村上天皇の皇宮だったこともある
天王寺村や阿倍野村といった集落が点在し
都度戦に駆り出される名もなき大衆
しかし彼らは英雄達を信奉し
戦国時代から江戸時代と500年間
水面下で南朝へのシンパシーを継承してきた
ということではないだろうか
顕家の墓にしても
名を伏せ信仰の対象として
受け継がれ存在していたのかもしれない
そして幕府の時代は終わり
じいちゃん達から受け継いだ想いが
一気に噴出したのが
この神社建立の真実だと思えてならない

いつの時代でも
誰もが自分に相応しい環境を選んで
生きているわけではない
ただ目の前の日々と
折り合いをつけるべく戦っている
正しいか正しくないかなど
日々に埋没した中ではわからない
戦争の時代であれば
疑問を持つ間も無く
駆り出され死んでいく
そんな歴史にも残らない
膨大な数の名もなき大衆

憲法解釈だの安全保障だのと
議論甚だしいご時世
偉い学者先生が違憲やないかと言ってるのに
日本国憲法は蔑ろにされる
名もなき大衆である我々は
何を拠り所にすればいいのやら
きっと名もなき大衆である我々を
小馬鹿にしているに違いない
何にせよ
俺は俺の子供らを
戦争になんか
決して行かせたくない

阿部野神社

阿部野神社

阿部野神社
大阪府大阪市阿倍野区北畠3-7-20

阿部野神社

阿部野神社

北畠顕家の墓
大阪府大阪市阿倍野区王子町3-8北畠公園

電光稲荷神社〜地図にない町32015年07月20日 11時42分46秒


睨み合いを続けていた機動隊が動いた
逃げ惑う群衆
武装した機動隊員が
逃げ遅れた男の顔面を蹴り上げる
丸腰の群衆は投石で反撃だ
火炎瓶がアスファルトを焼く
これはニュースで見る
遠い国のお話ではない
でもみんな
遠い国のお話だと思ってる

そこは海岸だった
古代に住み着いた
海人らの時代から
そこは釜ヶ崎と呼ばれていた

大阪の街が発展拡大するのに従い
大阪の街の外れの
この湿った窪地に
墓地と刑場が作られる
死体を処理する非人が住む以外
その周辺はただ荒地が広がるだけだった

明治になって
大量の人の流入が始まる
博覧会開催のため
スラムの人々を強制的に移住させたのだという
荒地に突如テーマパークが建設され
夜な夜な電光が煌めく
まさに新世界が誕生する
近くには巨大な遊郭が堂々オープン
あぶれる客を目当てに
売春婦や男娼が蠢く
オカマの語源は釜ヶ崎のカマなのだそうだ
ヤクザや芸能人
あらゆる人間がここに集まり
釜のなかは煮えたぎっていく

空襲で町は壊滅する
戦後の大阪市政は貧困と浮浪者対策を重視
結果として西日本各地から
大阪市へ浮浪者層が流れ込んでくる
あちこちに形成されたドヤ街
街の記憶なのだろうか
ドヤ街はいつのまにか
釜ヶ崎一箇所へ集約
町は行政からあいりん地区と名付けられる
歓楽街はキタやミナミが主流となり
残された釜の中はただただ
理不尽と抑圧だけが沸騰している

安く泊まれるということで
昨今は外国人のバックパッカーが増えてるらしい
この日も外国人の団体が道を塞ぐほど
その先にこじんまりと電光稲荷神社はあった
電光という名前が変わってるので調べると
明治の時代に
電光社というマッチ工場があったそうだ
工場建設に
貧民救済の目的があったかどうかはわからない
おそらくはその工場に祀られ
工場労働者達に親しまれた
お稲荷さんだったのだろう

遠い国のお話ではない歴史
遠い国のお話ではない現実
国や行政がどうするつもりかは知らない
どうすべきかなど語る資格も力量もない
ただ遠い国のお話ではないことだけは
知っておかねばならない
と思う

電光稲荷神社

電光稲荷神社

電光稲荷神社

電光稲荷神社
大阪府大阪市西成区太子1-10-16