熊野前商店街の小祠2021年10月31日 17時20分33秒


俺は翼を失い
バラバラになった機体と共に
落下している
空が見える
水平線が見える
田圃だろうか平い地面が近づいて
俺は
もっと高く
もっと遠くまで
飛びたかったのに
ジャンプを
ジャンプを繰り返したかったのに

大正6年3月25日午前11時40分
陸軍工兵中尉
杉野治義27歳を乗せた複葉機が
尾久村の水田に墜落した
その地には
村人の仕業なのだろうか
今でも殉難遺跡と刻まれた碑が建っている

6年後尾久村は尾久町となり
湧き出るラジウム鉱泉の発見で
田圃の風景は一転
一大遊興地へと変貌を遂げる
尾久三業地が花街として賑わい
阿部定事件をピークに
戦後の高度経済成長期の
地下水汲み上げに起因する
鉱泉の枯渇によって衰退の途を辿る

商店街脇にポツンと残された小祠が
花街周辺の名残なのだろうか
往時の面影を僅かに想起させる

賑やかさを記憶した土地が
退屈に耐えられなくなったのか
昭和の時代
ビートたけしのテレビ番組で
この地が脚光を浴びる
元気が出る商店街として有名になり
大勢の人で賑わったそうな

そして時は平成
忌野清志郎さんの「JUMP」のMVの撮影が
熊野前商店街で行われた
杉野中尉殉難の碑のある小さな広場で
清志郎さんは衆院選に立候補するという体で
買い物するおばちゃんや子供たちの前で歌う

「何が起こってるのか 誰にもわからない
いいことが起こるように ただ願うだけさ」
(忌野清志郎「JUMP」)

津波も原発事故もコロナも起きる前の歌だ
そして
その裏側で目的を持った奴が着々と準備をしてるのは
今も全く変わらない
泥棒が憲法改正の論議をして
コソ泥が選挙制度改革で揉めてるのに
僕等ははまた参加させてもらえず
また間違った人を選ぶ

いつも僕等は置いていかれる
オリンピックだって
支援金や補助金だって
解散総選挙だって
全て蚊帳の外で
世の中がちっとも楽しくならない

清志郎さんはそれでも
ジャンプを繰り返せと歌う
もう1度高くジャンプするのだと
翼がもげて
体もボロボロになっても
そんな歌を歌ってくれる大人は
今の世にはもういない

小祠
東京都荒川区東尾久5丁目13

熊野前商店街の小祠


熊野前商店街の小祠


熊野前商店街の小祠


熊野前商店街の小祠

磐井神社2019年02月17日 19時01分16秒


それは慶長五年(1600年)のこと
家康は江戸城を出立
一行は品川の海岸沿いに差し掛かる
鬱蒼とした森の中には八幡神社
その時神社の前で
一行を呼び込む声が上がった

見ると一軒の茶店があり
女がずらりと八人並んで立っている
真っ赤な手拭いを頂き
帯もまた朱色で統一
若く美しい女達は
男達を茶で持て成した

家康は駕籠の内より様子を伺う
ふと女達の中に袴を着けた若い男が
蹲っているのを目にする
あの男は何者だ
男は答える
名は庄司甚内
遊女の長キミノテテであると

その三年後に
家康は征夷大将軍となり
江戸幕府が開府
猛烈な勢いで城下の建設が進む
申請と承諾の処理
行政の仕事はいつの世も大変だ
そんな中
一風変わった申請が目に付いた

江戸の街に新たに
遊廓を公許願うというものだ
その主旨は

一つ
遊女を買い遊ぶ者は仕事もしないで
金の続く限り店に居続けて好色に耽る
店側も金が支払われれば幾らでも
留め置き馳走を振る舞う
だから
今バラバラにある遊女屋を
一箇所に集めて
しかも居られるのは
一夜限定と決めてしまいましょう

一つ
貧しい者からその娘を養子とし
育てた挙句は遊女屋へ売り渡すを目的とする
不逞な輩が横行している
だから
一箇所に集めて養子娘の素性を見極めましょう

一つ
一箇所に集めることで諸々の悪事を働く
不逞な輩を排除可能ですよ

というもの
バラバラに散在し
悪人の巣窟と化している
今の遊女屋を一箇所に集約し
行政の元で管理すべしと訴える申請

家康は聞いた
こんなことを言ってきたのは誰だ
名は庄司甚内
家康は言った
キミノテテか

関ヶ原へ向かう一行を持て成したのは
未だ開府以前であり
家康がきっと天下を取るであろうと
アプローチを図ったのであれば
甚内というこの男
なかなかの才覚ではないだろうか
その時既に
一箇所に集約する遊廓の青写真を
あるいは頭に描いていたのかもしれない

申請承諾の先には当然
実施のノウハウを有する者が必要で
遊女の長を名乗る男に
役目は課されたという訳だ

完成したのが吉原遊郭
当時は未だ今の日本橋辺りに在ったのだが
その隆盛はご承知の通り
その後
昭和33年まで公許遊廓の歴史は続き
その間様々な文化を生み
姿を変えて発展していった訳だが

誰も思いつかなかったことを
つまり0から1を生み出せる知恵者は
そうそう世に出てくるものじゃない
またそれをやってみろとジャッジする
ジャッジできる人もまた多くはないだろう
甚内の作ったベースに基づき
いかにも私がやりましたといって
偉そうに能書き垂れてた人が
きっと一杯いたんだろうな
いつの世もきっと
そんなもんだよな

甚内が茶店を営んでいた八幡神社は
現在は磐井神社という名前になっている
この神社に伝わる振ると鈴の音がする鈴石が
鈴ヶ森の地名の由来と由緒書きにあったが
実は甚内の店の表の暖簾に鈴が付いていて
客が来ると音でわかる仕組みになっていたそうで
こっちが鈴ヶ森の本当の由来だ
と思う
これもきっと彼の知恵の為せる技ではないか

鈴ヶ森といえば刑場跡
開設が1651年なので
甚内は既に死去しているが
牛馬の死体置き場に祀られる馬頭観音が
同地に今でもあることと
当然処刑された死体の処理を行う役目の
非人達が嘗ては居た訳で
また新吉原には隣接して
非人溜があったり
距離を置かず穢多村があったのを見ても
歴史に埋もれてしまった賎民の勢力の中に
甚内もまた居たのかもしれない

磐井神社

磐井神社
東京都大田区大森北2-20-8

磐井神社

鈴ヶ森刑場
東京都品川区南大井2-7-3

海神稲荷神社2018年10月14日 17時51分31秒


街は賑わった
ネオンは永遠に消えることがなく
酩酊と興奮に塗れた男共が
鼠の様に街路に溢れる

街灯の柱に凭れる男
燐寸の匂いにふと我に帰る
見上げると巨大な楼閣
まだ新しい木造の格子に
女の白い顔を見た

昭和3年
街道沿いに点在していた遊女屋を集約して
船橋の海神新地はオープンした
東京から遠征してくるほどの賑わいだったらしい
娼妓は何故か
山形県出身者が多かったという

空襲で焼けることもなく
近年まで妓楼の建物が残っていたらしいが
訪れたその地には
真新しいマンションが並んでいるだけだった

戦後
遊廓は赤線へと移行したが
それも束の間
今ではストリップ劇場も撤去され
ただの住宅街へと街は変貌していく
ひび割れたアスファルトの先に
子供用の自転車が停まる家々の中に
外壁を緑色に塗ったソープランドが現れる
たった1軒だけが取り残された姿は
異様で悲しい

意図されたものなのだろうか
妓楼の撤去された跡に
一本だけ当時の街灯と思われる柱が残っている
粗骨材を露出する風化したその柱は
それでもいつでも証言台に立ってやるさと
堂々とした風采で屹立している
赤黒く錆びて盛り上がった金属の枠材は
まるで老婆の女陰の様に
ぱっくりと口を開けて誰かを待っている

コンクリートやアスファルトでは
きっと此奴らを埋めきれない
土地が記憶している
男の孤独も
女の悲しみも
情念も怨恨も狡猾も狂気も
流した汗も涙も体液も
全部
染み込んで拭えやしない

恐らくは
遊廓の末端あるいは外側であった場所に
海神稲荷神社がある
境内で若いお母さんが小さな女の子を遊ばせている
遊女が娼妓がここをお参りしたかなんて
もう誰にもわかりゃしない

海神稲荷神社

海神稲荷神社

海神稲荷神社

海神稲荷神社

海神稲荷神社
千葉県船橋市海神1-22

秩父神社〜武蔵国四之宮2017年11月26日 11時45分37秒


男は深く思考する
誰もが軽薄に短絡に
ペラペラと
体良く場を取り繕うその中で
男だけは深く思考する
そして
男の重たい口が開く
太く低い声で語られる言葉は
暗闇となった世界に
光明を取り戻す

秩父の駅を出た刹那
嘘のように雨雲が掻き消え
武甲山が顔を出した
秩父神社の神奈備山
威容を誇る霊峰

街は生糸とセメントで栄えた
巨大な資本が流れ込み
仕事を求めてまた人が集まる
人の集まるところには必然
遊廓ができる

秩父神社の周辺に
こぢんまりと繁華の街は凝縮し
その残渣が今も
嘗て生まれたであろう
無数のドラマを想起させ
訪う人を魅了する

秩父神社の祭神は
八意思兼命ヤゴコロオモイカネノミコト
アマテラスが岩屋戸に籠もった際に
引きずり出すべく計画を練った
知恵者である
ニニギの天孫降臨の際に
アマテラスが訓示を垂れるシーンで
傍に控える幹部としても描かれる

ここで再び
神武以前のニギハヤヒ王朝の存在を伝える史書
未だ偽書と言われその内容を認めてもらえない
先代旧事本紀の記述を見てみよう
ニギハヤヒ王朝では
日本全国各地に国造クニノミヤツコを置き
その支配を磐石なものとしていた
国造の制度は
実に大和朝廷以前から確立されていたものなのだ

ニギハヤヒ王朝の幹部連のリストがある
各地に配置された国造や連ムラジ達の
祖神としてその名が連ねられている
オモイカネもまたリストアップされた一人なのだ
頭の良い男だったのだろう
ニギハヤヒのブレーンとして
大いに活躍したに違いない
それら幹部の子孫達が
各国へ国造として派遣されたということだ

リストにはアメノウズメやアメノコヤネの名も見える
ニギハヤヒから神武へと王権が譲位された際に
国造の制度は継承され
そのまま大和朝廷に従う者
或いは抵抗し消されていった者
そして記紀には
都合の良い記述で事実が捏造隠蔽されていった
というのがどうやら見えてくる結論だ

頭の良いオモイカネ或いはその末裔は
己の身の振り方を考えたに違いない
大和朝廷に従ったのは
記紀にその活躍と名を残していることで
明らかだ

ここ秩父も国造が置かれていたらしい
つまり嘗てはニギハヤヒ王朝の
支配下にあったということだ
オモイカネのカネは金であり
鉄や銅の生産地だったのかもしれない
武甲山には神座たる巨石など
ニギハヤヒの系譜を物語る信仰装置が
いくつも残っていたそうだ
富国強兵の石灰採掘で
今や悉く破壊され消滅しているが

秩父神社の社殿配置を見て欲しい
本殿両脇には
恭しくアマテラスとトヨウケヒメ
つまり伊勢神宮を配置
そしてその裏側には
天神地祇社として
全国の一宮の神を
これでもかとばかり集結させている
抵抗するなよ
わかってるだろうなと
知恵出しを無理強いされているように
私には見える

戦後の父親達が猛然と追い続けた繁栄
続々と建設された構造物は
巨大地震なんかにゃビクともしないさ
世界に誇る日本のエンジニア達の知恵の結晶
それに
何と言っても
神々の山から産み出された
コンクリートで出来ているのだからな

秩父神社

秩父神社

秩父神社

秩父神社

秩父神社

秩父神社
埼玉県秩父市番場町1-1

亀戸香取神社2017年06月04日 22時21分12秒


ふつ ふつ ふつ
鋭利な刃先が彼奴の肉を削ぐ
ふつ ふつ ふつ
神の宿る剣
肉を断つ音

まだこのような平らな台地はそこになく
幾つもの小さな島が海の上に顔を出し
魚やら水藻やら
人はそこに糧を見つけ
日々を暮らす
とはいえ
そのような長閑な風景だけではない
すでにクニの支配構造は始まっている

支配者はいつも西からやってくる
最初に来たのは誰だ
亀戸香取神社の由緒によれば
藤原鎌足がここに神社を置いたのだそうだ
本当のところは誰にも解らないが
その頃すでに遠く大和朝廷の
支配が及んでいたということは言える

政治色のある神社が置かれるくらいだから
何らかの重要な拠点が
ここにはあったのかもしれない
このエリアの海運のボスとその集団
漁民であり時に兵力となるなど
きっとその始まりは
大和朝廷をさらに遡るだろう

祭神である経津主神フツヌシノカミは
藤原氏の祖神ということになっているが
その名前から
物部氏の匂いがする
フツは刃物を表すそうだ
そこら辺の話は
下総国の香取神宮で
いつか読み解きたいと思う

今や何故かこの神社は
スポーツ振興の神様になっている
吉田沙保里さんなど
有名アスリートが訪れているらしい
この日も色鮮やかな市民ランナー達や
サッカー少年達で
境内は賑わう
かつては亀戸三業地で賑わったことなど
誰も言わないし知りたくもない
ひっそりと
あの第六天が末社で鎮座するのを
誰も振り返らない

亀戸香取神社

亀戸香取神社

亀戸香取神社
東京都江東区亀戸3-57-22

亀戸香取神社

稲足神社(境内末社)
祭神 面足神 惶根神 金山毘古神 宇賀御魂神