氷川神社〜武蔵国三之宮2017年11月19日 17時18分28秒


沼の果てから昇る太陽
水面は逆立ち
龍神が姿を表す
そして空には
巨大な舟
祭祀の音は絶頂に達す

縄文海進と呼ばれる
縄文時代に発生した海水面の上昇現象
ピーク時は現在より5mも海面が高かったそうだ
関東平野のほとんどが海の底であったらしい
その後海面は低下
同時に河水による堆積が進み
現在の低地平野が形成されていく

埼玉県さいたま市東部には
見沼という巨大な沼があった
海岸線が後退した後も
沼地として残ったものなのだろう

人々はその周辺に暮らした
貝塚が発見されるなど
海岸だった時代から
そこで暮らす人がいた

大宮の氷川神社から
この見沼を横切るように
一直線に神社が並んでいる
氷川神社
中山神社
氷川女體神社
祭神はそれぞれ
スサノオ
オオナムチ
クシイナダヒメと
みな出雲の神様だ

当時の国造クニノミヤツコが
出雲族を引き連れてきた
その際氷川神社を奉崇した
などと社伝にはあるが
そうではあるまい
大和朝廷が全国支配に乗り出すずっと前から
スサノオを祀る出雲族が
この関東の地にまで
勢力を拡げていたと見るべきだ

室町時代から一宮だの三宮だのと
議論が結論せず
氷川神社も氷川女體神社も
武蔵の国の一宮を主張しているが
そんなことはどうでもよい
見沼は御沼であり神の沼で
その周辺に
夏至の日の太陽の沈む方角と
冬至の日の太陽の昇る方角に
それぞれ神社を配置し
祭祀を続け生活を続けた人達がいて
そしてその人達は紛れもなく
我々日本人の祖先であり
その神様こそ日本人の祖神であるのだ

後の支配者たちは
先の支配者のことを消してしまいたく
だけど完全に消してしまうには
先の支配者はあまりに強力で
社格を与えてはご機嫌を取り
明治天皇に至っては
入都わずか4日目に
氷川神社を武蔵国の鎮守と定めた
戦艦武蔵は宮本武蔵ではなく
武蔵の国の鎮守を乗せて海の藻屑となった

氷川神社の摂社に門客人神社があり
中山神社には荒脛神社がある
どちらも消されているが
アラハバキ神である

氷川女體神社には
古代祭祀跡が
公園となって整備されている
磐船祭祭祀遺跡
磐船だ
磐船に乗って天降った
スサノオの息子
先の支配者
ニギハヤヒだ

11月は七五三で神社は賑わう
着飾る小さな子供達が可愛らしい
健やかに育つようにという細やかな願いは
きっと叶う

氷川神社

氷川神社

氷川神社 
埼玉県さいたま市大宮区大宮区高鼻町1-407

中山神社

中山神社

中山神社 
埼玉県さいたま市見沼区中川145-65 

氷川女體神社

氷川女體神社

氷川女體神社
埼玉県さいたま市緑区宮本2丁目17-1

コメント

_ チタRC ― 2020年12月02日 17時22分40秒

アラハバキ神に関する異説
アマテラスから十種の神宝を受けて饒速日は先兵としてヤマトに来た。しかしそこには、ナガスネヒコ、アビヒコの兄弟が治めていた。そこで饒速日は血縁になり油断させて本体の到着を待った。本体が来ると説得を試みたが応じないので、ナガスネヒコ、アビヒコを追放した。
ナガスネヒコ、アビヒコは津軽(東日流)地方に亡命して再起をはかる。津軽地方には岩木山麓には在来のアソベ族、平地には周に滅ぼされた殷の亡命者のツボケ族がいた。これらを束ねてアラハバキ族となり、今の茨木県位まで勢力を伸ばし日本国を造った。ヤマト奪還をめざし何度か進行したが、果たせなかった。血縁の者を天皇にするのがやっとだった。アビヒコの子孫が阿部、安部姓を名乗り、末裔が藤原三代の平泉を拠点とした。ヤマトから武内宿禰が偵察に来て『アラハバキの国は土地も肥沃で奪うべき』と上申しヤマトは何回の攻略戦争をしたが完全には果たせなかった。しかし源氏一族は頼朝になって攻略に成功した。以上偽書と言われている『東日流外三郡誌』より。

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