下谷神社2017年10月01日 12時08分40秒


上野駅からほど近く
下谷神社はある
都内最古の稲荷神社とも
地下鉄の駅名にもなっている
稲荷町の町名の由来となったとも
神社の由緒書きにも
ネットの誰かの訪問記にも書かれている

境内には
ベンチと灰皿が置かれて
煙が青空に吸い込まれていくのを
眺めているだけで気持ちいい
とても清々しい神社だ
老人が百年前からずっと
そこでそうしていたように
未だ安く売られている煙草を
延々と吸い続けている

かつては下谷稲荷神社と呼ばれていたという
明治5年に名称が改められたらしい

それもそうだろう
これは稲荷神社ではない
祭神は大年神オオトシ
記紀によれば
スサノオと神大市比売カムオオイチヒメの
間に生まれた子供であり
その弟(妹?)が宇迦之御魂神ウカノミタマノカミ
こっちが稲荷神社の祭神だ

どこでどうなったのかは
わからないが
天皇なのか明治政府なのか
この誤りは
正さねばならぬと考えたに違いない
何故なら
祭神オオトシとは
あの饒速日命ニギハヤヒのことなのだから

前王朝の存在
未だ認めてしまうと都合の悪い連中がいるらしい
だけど都内の神社に行くだけで
少しだけ薄皮を剥ぐだけで
埋もれた日本の歴史が浮かび上がる
関東の地においても
前王朝の支配や統治構造が垣間見えるのだ

さあこれから
スサノオとニギハヤヒの系譜を
この関東の地でも
追いかけていくことにしよう
混迷を極める日本の現在に
何かが見えることを期待して

下谷神社

下谷神社

下谷神社

下谷神社
東京都台東区東上野3-29-8

鷲神社2015年02月08日 15時42分07秒


金龍山浅草寺の祭り
鷲明神の酉の市
何かとイベントにかこつけて皆
ここ新吉原を訪れる
夜中まで乱痴気騒ぎは終わらない

不夜城と呼ばれた新吉原
当時は夜八つと言ったそうだが
深夜二時にもなると
見世の大戸は降ろされ
水道尻秋葉社の常夜灯の炎以外は
動くもののない
音のない世界が拡がる

だけど今日は普段と違ってた
ギィギィと鈍い音を立てて
跳ね上げ橋が降ろされる
お歯黒どぶに橋が架かる
見窄らしいなりをした男が二人
片棒担いで大きな桶を運び出した

梅毒だろうか結核だろうか
死んだ花魁は大門からは出られない
普段は開くことのない不浄門
棺桶を担いだ男二人がそこを通って
畑の道へ出る

鷲明神の裏手だろうか
その道筋は今ではよくわからないが
田地の先
浄閑寺へ花魁の遺体は運ばれる

真夜中に棺桶を運ぶこの男たちは何者だろう
見世のスタッフだろうか
周辺に住む農民だろうか

死をケガレと捉え忌避された時代
ましてや
ディズニーランドを遥かに超える夢の世界で
徹底的に死は隠される
スタッフだろうと誰だろうと
死体になど決して触れたくない

暇な方は江戸切り絵図
新吉原周辺を見ていただきたい
正方形を45度程傾けたような街路形状
一番下隅に何も書かれていない長方形の空間が
ぴったりくっついているのに気づく
ここには非人頭である車善七の居宅があった

居宅のある敷地の中には
車善七の手下達も住んでいる
車善七はそんな非人達を統括する管理者であった
物乞いはもちろん
屑拾いといった清掃に始まり
処刑の執行さらには死体の処分などを指示した
吉原で死んだ遊女の運搬も彼らの仕事であった

近くの紙洗橋で墨を落とした古紙が山のように積まれ
廓内で客のこぼした酒を集めてここで売った

廓内の九郎助稲荷のあたりから
この車善七の居宅が
よく見えたのではなかろうか
狂宴に酔い痴れる人々への戒めに
意図的に彼らをここに置いたのかもしれない

身分と職業がイコールであった時代
現代のものの見方では到底理解できるものではないが
それはケガレをキヨメるという宗教性を内包する
歴史的に構築され組織化された社会システムであった

鷲神社の向こうに
区立台東病院のきれいな建物が見える
都立台東病院の廃止後に建ったものだ
都立病院は元々は明治時代に娼妓の性病専門で
警視庁が設置した吉原病院がその前身だ
組合事務所と隣接して
仲ノ町通りの先を
行き止まりのように塞いでいた

浄閑寺へも立ち寄る
娼妓たちの埋葬は戦後も続いていたという
その数は300年間に二万数千に及ぶらしい
墓地を奥へ進むと新吉原総霊塔がある
カメラを向けると
またしても何故かシャッターが切れない
やはり寺とは相性が悪いらしい

鷲神社

鷲神社

鷲神社
東京都台東区千束3-18-7

浄閑寺

浄閑寺 新吉原総霊塔
東京都荒川区南千住2-1-12

花園神社〜新宿の片隅で2015年01月25日 16時51分16秒


しゃがれた声で歌うその歌は
東京そのものだった
その歌で歌われる新宿が
僕らの東京だった

「知らない街でポリバケツを被って
それでも笑っていたさ
怖いものなんて何もなかったから」
(「街は今日も雨さ」SION)

嘗て沢山の花が咲き乱れていたこの地
いつの頃からあったのか誰にもわからない稲荷社
世は乱れ
大勢の人々が移動を繰り返し
その足跡が大きな道となった

統治者が現れ
此処は新たな宿場町になった
大勢の人々が密集する
人々は非日常の快楽を求め
それらを満たす供給者たちが
次から次に発生する
境内はいつも縁日の賑わいだ

戦争が終わり
焼け野原となった街
敗北で腑抜けになっている暇などなく
不法のバラックが逞しく
食と酒と性を求める人を集める
全焼した社殿の再建資金を集めようと
境内で見世物や演劇の興行が始まった

平和な世となった
神社の目と鼻の先は
東洋一の歓楽街と呼ばれる街になる
あらゆる欲望を満たすメニューが揃い
人々は非日常のスリルを求め
取り憑かれたようにこの街に集まる

一攫千金や成功を夢見て
日本中いたるところから
東京に人が集まる
俺を買ってくれと
きっと誰かが買ってくれると信じて

その歌を聴いて
東京に出て行ったあいつは
そして敗北して田舎に帰ったあいつは
今どこでどうしているかわからない
預かったレコードはまだ持ってる
今でも歌い続けるシンガーは
今だってしゃがれた声で
前を向いて生きろと歌う

「後ろに歩くように俺はできていない
今日を行くだけだ たとえ亀より遅くとも」
(「後ろに歩くように俺はできていない」SION)



花園神社
東京都新宿区新宿5-17-3

妻恋神社2013年07月28日 16時35分01秒

荒れ狂う波頭の前に
日本武尊は為す術もなく
船は方向を失い
最早これまでかと項垂れる傍ら
妾妻の弟橘媛オトタチバナヒメが
これはきっと海神の仕業
私がこの嵐を沈めます
と自ら海へ身を投ずる

蝦夷の地に
平定の証として
日本武尊を祀る神社が
次々と建っていく
支配される反発を
抑制する手段の一つとして
悲劇のヒーローの物語は
有効だったのかもしれない

美しい物語に因み
いつしか
妻恋神社と呼ばれ
江戸時代には関東惣社を名乗り
大いに賑わったという
単身赴任の藩士のお父さんなども
恐らくは置いてきた妻のことを
思い出したりしたに違いない

今は何故だか
周りをラブホテルに囲まれ
日曜の昼間だというのに
ひっきりなしに駐車場に
車が出入りする以外は
参道を歩く人などほとんどいない




妻恋神社
東京都文京区湯島3-2-6

鳥越神社〜鳥越幻影③2013年07月05日 22時50分58秒

天慶三年(940年)二月
俵藤太秀郷(藤原秀郷)の放った矢が
将門のこめかみを貫いた

新皇を宣言し朝敵とされた平将門の首は
その後京都へと運ばれる
都で晒された将門の首は しかし
俺を殺すことなど出来るかと喋り出し
突如豪快に嗤いながら東に向かって飛び始める

岐阜の辺りで一度射落とされるが
それでも負けない将門
関東の地で首は白鳥明神の上を飛び越える
飛び越えたので後、鳥越明神と呼ばれるようになる

首が着地したのが現在の大手町1丁目
首塚のある場所である

体はバラバラにされ鎧や兜などと各地に埋められる
そしてここ鳥越神社には
将門の手が埋まっている

鳥越神社の祭神は日本武尊と家康と
藤原氏の祖神である天児屋命アメノコヤネノミコト
将門の名前は無い
そして
得体の知れない伝説もまた
オフィシャルな由緒書きには
書かれていない


鳥越神社
東京都台東区鳥越2-4-1