石切劔箭神社2016年08月21日 18時59分17秒


長髄彦ナガスネヒコ
もうお終いにしよう
お前はよく戦った
だがこのままでは
我らが一族は全滅してしまう
我々が築いてきたこのヒノモトの国を
俺は永遠に残したいのだ

九州高千穂を出立した神武軍は
瀬戸内海を東へ進み
当時は入江であった白肩津に上陸
ヤマトを目指した

生駒山を越えればもうヤマトという所で
待ち構えていたのが長髄彦の軍団
猛烈な勢いで行く手を阻まれ
神武軍は敗退する

その後
別のルートで攻めてくる神武軍に
長髄彦は問いかける
お前達は天神の名の下に
我らの国を攻めてくるが
我らの王もまた天神の子である
天神の子が果たして二人もいるのかと

神武は天神の子の証たる
天津瑞アマツシルシを示す
驚愕する長髄彦
我らが王の持つ天津瑞と同一だ
混乱する長髄彦
だがそれでも
戦い続けることを決断する

女王卑弥呼を失った邪馬台国連合
俺が何としても守り抜く
たとえ最後の一人になっても
俺は戦い続けるのだ
まるで終戦前夜のクーデターを図った陸軍兵のように
狂気を帯びていく長髄彦
そこに
王が現れる
現王朝が築かれるずっと以前から
ヤマトの地を統治していた覇王
ニギハヤヒ

ニギハヤヒは
長髄彦を殺し
神武に王位を譲る

この時のニギハヤヒの決断は
如何程であったのか
当時の状況を客観的に記すものなどなく
想像の域を出ないが
決して好戦的でない彼らは
それまで国同士で連合し
農耕や製鉄技術を伝え合い
平和で安定した文化圏を築いていた

そのような文化の継承と
民衆の安全確保など
激しい条件闘争があったに違いない
ニギハヤヒは
義理の兄である長髄彦を殺害してまで
平和の道を選んだのだ

時に日本人が発揮する集団の力は
この時代にベースが築かれたのではないだろうか
団体戦でメダルが獲得できたのは
ニギハヤヒのお陰と言ったら言い過ぎか
そもそも日本ヒノモトの国と
最初に名付けたのは
このニギハヤヒなのだから

ニギハヤヒとその息子
ウマシマジを祀る石切神社
ここは長髄彦が神武軍を破った防衛の地である
霊験あらたからしく
このクソ暑い日でも
たくさんの参詣者が
百度石の周りを回教徒のように回り続けている
日本人はすでに
ニギハヤヒの恩恵を
充分に受けているのにと思いながら
奇妙な形の鳥居を後にする

石切剣箭神社

石切剣箭神社

石切剣箭神社

石切剣箭神社
大阪府東大阪市東石切町1-1-1

弓削神社2016年06月19日 11時06分35秒


女帝は美しかった
良い香りが立ち籠める
あの室が堪らなく懐かしい
あの時私は
私の人生など
もうどうなっても良いと
本気で思ったのだ

悪僧として名高い弓削道鏡
女帝をたらしこみ
自ら天皇になろうとした男

時は八世紀後半
仏僧と女帝のスキャンダルは
テレビやネットなんかなくても
即座に日本中に広まった
処女のまま即位した女帝と
仏法に帰依する僧とが
犯した禁忌
今も昔も
皆ゲスな話題が大好きだ

道鏡は座ると膝が三つ出来
と江戸時代の川柳があるほど
巨大なイチモツの持ち主だったという
浮世絵などで描かれる彼の姿は
まるで陰茎の権化だ

女帝の諡は孝謙天皇
淳仁天皇に譲位し上皇となった後
再び称徳天皇として重祚する
上皇時代に
二人は出会う
病に伏せる上皇の看病禅師として
現れたのが道鏡であった

この時女帝は四十四歳
今までがむしゃらに
キャリアウーマンの道を
ひた走ってきた女帝は
恋に落ちた

病の床で目覚めた時に
目に映ったのが
脂ぎったポコチン坊主では
決してなかったはずだ
その後の二人三脚での執政と
女帝の道鏡への絶対的な信頼を見れば
そこにいたのはきっと
聡明なイケメン坊主だったに違いない

道鏡を輩出した弓削氏は
物部氏に連なる一族
河内国に広く分布していたという
道鏡の時代から遡ること300年
物部守屋が聖徳太子によって殺戮された記憶は
物部一族が政治の表舞台から
引きずり降ろされた記憶は
この一族にはまだ決して
風化したものではなかったはずだ
八幡神託事件なども
道鏡本人というより
巻き返しを図る
物部の末裔の仕業
だったのではなかろうか

新しい都として女帝が選んだのは
愛する男の生まれた
この河内の地であった
ここに今も残る弓削神社
神武天皇に皇位を譲った
あるいは
剥奪された
物部氏の祖神であるあの神が鎮座する

まさか巻き返しを図ったのは
あの神の意志
だったのか

僕等は遂にあの神に辿り着いた
あの神の名は
饒速日命ニギハヤヒノミコト

弓削神社

弓削神社

弓削神社
大阪府八尾市弓削町1-36

弓削神社

弓削神社

弓削神社(東弓削)
大阪府八尾市東弓削1-166