亀戸浅間神社〜東洋モスリンの向こうに陽は落ちて2019年10月06日 20時24分22秒


夕暮れの街を群れを成して進む労働者
誰も口を開かず只黙々と
西から東から南から
沈黙の儘次々に合流する男達

灰色の作業着に身を包み
私もまたこの夕暮れの道を進んでいた
決まったことを決まった通りにやっていれば
貧しさから抜け出せると思っていた
私は
何も知らなかった

前進する足音が怒涛の様に響く中
傍で女性の歌声が起こる
寄宿舎で待機する様言われてた筈の
女工達が集まっている

前の方で沸き起こる怒号
警官隊と激突し縺れ合う労働者
突如亀戸の街は市街戦の様相を呈し
私もまた厳つい警官にしたたか殴られた
血に染まる視界の向こうで
まだ幼い女工が目を腫らして泣いていた

明治10年も過ぎた頃
政府による殖産興業の旗印の下に
驚異的なスピードで産業の近代化が進んだ
日本全国に次々と建設される紡績工場や紡織工場
西欧から取り入れた機械と手法により
日本は軽工業において輸出大国となった

猿のように真似するのが得意で
勤勉と忍耐が強みの日本人は
西欧から機械や技術をバンバン取り入れ
遮二無二モノを生産し始めたのだが
生産に携わる労働力のマネジメントにおいては
どシロウトであったのだろう
あちこちで労働争議なんてものが巻き起こった

亀戸にあった東洋モスリン株式会社では
明治末に大規模な労働争議が起きている
特に女性運動家達がここを舞台に
活発な運動を展開していたようだ

教科書に載っていた「女工哀史」は
似たような名前で東京モスリンという会社の
労働者が執筆しているようで
同時代の悲惨な女工達の様相がレポートされている
今や余程の暇人か酔狂でないと読む人もいまいが
これを機会に岩波文庫を読んでみた
当時のヒステリックな社会主義の匂いが鼻につくが
冷静なデータとして読むとなかなか面白い

非衛生的な寄宿舎に押し込められ
外出も許されず
朝から晩まで高温多湿の工場で働かされる女工達
彼女らは田舎の農家の娘などで
募集人の優しい口車に乗せられ
借金のカタに連れてこられるという
まるで女衒が暗躍した
吉原の遊女の構造を彷彿とさせるような話が続く

ただ冷静に読めば
工場に託児所を設置したり
遠足やら運動会やったりといった
福利厚生を企業は考えていたのがわかる
筆者は運動会の弁当がしょうもないなど
その内容を批判してはいるが

このような話は
得てして自虐史観に陥ってしまいがちであるけれど
一方で労働者による闘争の歴史と
労働基準法ほか制度の確立や
もちろん会社側の努力もあって
世の中は少しづつ良くなっていったのだなあ
と思うくらいで良い

昭和5年
大量解雇反対を掲げた従業員はストライキに突入
この時参加した女工は2062人
地域を巻き込んだ大闘争は
会社側も強烈に対抗したのだろう
組合側の敗北で終結したという

東京大空襲により
この亀戸周辺は灰燼に帰す
女工の扱いも労働争議の諍いも
東洋モスリンも東京モスリンも
戦後には引き継がれなかったようだ
同業のカネボウや東洋紡などは
優良企業として今に至っているのを見れば
やはり駄目なものはいづれ破壊されるのだ

さて神社の話であるが
女工哀史によれば
紡織工場には娯楽の意味で
必ず神社が設置されたとある
祀られたのはお稲荷さんが主流で
各工場では祭日を設け
祭事を行ったらしい
なんだか楽しそうではないか

亀戸浅間神社は
その名の通り富士信仰の神社である
工場群が立ち並ぶ以前の
周辺の主には農民だろうか民間信仰の施設として
富士講などが機能していたと思われる
祭神は木花開耶比売命コノハナサクヤヒメノミコト
女神である
神社から丁度真西に当たる紡織工場の
女工達の行く末を
沈みゆく太陽と共に
果たして女神は見届けてくれただろうか

亀戸浅間神社

亀戸浅間神社

亀戸浅間神社

亀戸浅間神社
東京都江東区亀戸9-15-7

亀戸香取神社2017年06月04日 22時21分12秒


ふつ ふつ ふつ
鋭利な刃先が彼奴の肉を削ぐ
ふつ ふつ ふつ
神の宿る剣
肉を断つ音

まだこのような平らな台地はそこになく
幾つもの小さな島が海の上に顔を出し
魚やら水藻やら
人はそこに糧を見つけ
日々を暮らす
とはいえ
そのような長閑な風景だけではない
すでにクニの支配構造は始まっている

支配者はいつも西からやってくる
最初に来たのは誰だ
亀戸香取神社の由緒によれば
藤原鎌足がここに神社を置いたのだそうだ
本当のところは誰にも解らないが
その頃すでに遠く大和朝廷の
支配が及んでいたということは言える

政治色のある神社が置かれるくらいだから
何らかの重要な拠点が
ここにはあったのかもしれない
このエリアの海運のボスとその集団
漁民であり時に兵力となるなど
きっとその始まりは
大和朝廷をさらに遡るだろう

祭神である経津主神フツヌシノカミは
藤原氏の祖神ということになっているが
その名前から
物部氏の匂いがする
フツは刃物を表すそうだ
そこら辺の話は
下総国の香取神宮で
いつか読み解きたいと思う

今や何故かこの神社は
スポーツ振興の神様になっている
吉田沙保里さんなど
有名アスリートが訪れているらしい
この日も色鮮やかな市民ランナー達や
サッカー少年達で
境内は賑わう
かつては亀戸三業地で賑わったことなど
誰も言わないし知りたくもない
ひっそりと
あの第六天が末社で鎮座するのを
誰も振り返らない

亀戸香取神社

亀戸香取神社

亀戸香取神社
東京都江東区亀戸3-57-22

亀戸香取神社

稲足神社(境内末社)
祭神 面足神 惶根神 金山毘古神 宇賀御魂神

富賀岡八幡宮2015年01月15日 21時05分28秒


荷風先生のように歩き出した僕は
曇天の下
巨大なショッピングモールを通り過ぎて
目的の神社に辿り着いた

80年前に永井荷風の歩いた道
砂漠のような埋立地も
汚い長屋建ての人家も
見つかるわけもなく

荷風先生は枯蘆と霜枯れの草の中に
荒廃した小祠を見つける
忽然と現れた古社に驚き
その偶然を喜んだ

先生はこのモノトーンの景色の中に
原色の女を見る
女が乗り込んだ乗合自動車に
先生もまた
追いかけるように乗り込んだ

女は洲崎パラダイスの大門前で下車する
休日に外出した娼妓であったと納得する
ただそれだけのことなのだが
砂町の寂しい風景と荒廃した小祠と
実家なのか此処に所縁のある娼家の女と
先生にはそれが
何か美しい物語に見えたのかもしれない

深川八幡祭りで有名な富岡八幡は
元々はこの砂町にある富賀岡八幡を
深川へ遷したものだという
元八幡とも呼ばれ
門前に繁華街が開け多くの人を集める有名な神社の
言わばオリジナルであると主張する

住んでる人でもなければ
今も昔も
わざわざ訪れるような場所ではないが
荷風先生の頃とは違って
社殿は綺麗に整えられ
立派な富士塚もある
そこそこ魅力ある神社である
オリジナルの主張など逆に鼻に付くぐらいだ

遡れば
この地が開拓される以前
恐らくは幾つかの小島が点在する海原が広がり
清和源氏の関東への勢力拡大に伴って
小島の一つに八幡神をマーキングしたのだろう
どおってことないと思われていた土地が
俄かに歴史の大舞台に転換する

荷風先生の残した美しいストーリーや
古につながる歴史を
真面目に追求し語ることを
神社だけでなくこの地域の
売りにしたらいいのにと少し思った

話は飛ぶが
地方創生に多額の国費が投じられるらしい
センスのないゆるキャラばかり作って
皆んなで横並びしてないで
それこそ古代から連綿とつながる
独自の歴史と美しいストーリーを堂々と
語ってくれる町づくりなんていいと思うが
日本中できっと驚くほどの地域の個性に
気づかされると思うのだが

荷風先生のように都バスに乗った僕には
曇天の下
原色の女など現れる筈もなく
PASMOがうまく使えないお婆さんが
ようやく降りることができたのを
ただずっと眺めていた




富賀岡八幡宮
東京都江東区南砂7-14-18

亀戸天神社2014年08月31日 14時56分27秒

俺達は亀戸駅の方からだよ
今から天神さんの裏さ
今日は金が入ってね
いい女がいるんだよ
でもアンタ気をつけなよ
中には歯の抜けたババァや
変な痣だらけの女もいるからね
何たってあそこには
店が千軒もあるからさ
何だって
アンタ何言ってんだ
小林さんが獄死
拷問か
何だよ
アンタ特高かい

昭和の初め
亀戸天神の裏手は
遊郭と私娼窟がひしめき合う不夜城であった
日が暮れるのも待たず
街は脂粉の薫りに包まれる
明治十年代から目覚ましく発展した工場地帯
工場労働者達は挙ってこの街を目指した

東京大空襲で焼け野原になるまで
有数の色町として隆盛を誇ったが
戦後の高度経済成長に飲み込まれるように
亀戸周辺の工場は徐々に他へ移転し始め
跡地には続々と団地が建ち並ぶ
追うように店を閉める料亭
売春防止法により完全に灯りを消す赤線地帯

菅原道真は無実の咎により罪を被った
そのため妄言を激しく嫌う
天満宮を訪れる人達は皆
心に邪心を隠してお参りするのが見えるので
道真は永遠に北を向いてしまったのだそうだ

道真は
亀戸天神の北面に位置するこの色町の変遷を
きっと静かに見つめていたに違いない
人々に対する罰などは無かっただろう
そこには嘘は無かったから
これから先
もっともっと罪深い
虚言と妄言による煽動や悲劇が
この国に起き続けるのだから




亀戸天神社
東京都江東区亀戸3-6-1

二社神社2014年08月09日 21時44分00秒

足を踏み入れるのにも躊躇するような
何方かの居宅と居宅の隙間の奥の
さらに何方かの居宅の玄関の傍に
その神社はある

由緒書きなどある訳もなく
出自不明な小祠
東京の街にはこんな神社が無数にある

二社神社という名前だけが手掛かり
当然二つの神社が合祀されているという意味だろう

日本人は神社を勝手に動かすのを憚る
そんな心理がどこかで働く
周りの人も家も移り変わっていく中で
神社だけはそこに残り
遠い過去を現在に伝える装置となる

ネットで閲覧可能なので(goo古地図
江戸切り絵図という古地図を見てほしい
現在の二社神社のあるあたりには
榊原式部大輔の下屋敷があり
秋葉社と稲荷の2社が隣接してるのが確認できる
恐らくはこの2社が合祀されたものと見て間違いない

見方を変えると
この二社神社の存在によって
榊原式部大輔の下屋敷がかつて
此処にあったということを実感させてくれる

榊原康政は徳川家康に仕え
徳川四天王とも呼ばれた武将
歴史の中で榊原家の人々が
この下屋敷を捨てて出て行った場面がきっとあった
侍の時代は終焉を迎え
その子孫達の行く末は知らない

新潟県上越市に
榊原康政を祀る榊神社という神社があるらしい
廃藩置県で高田藩が廃止となった明治四年に
家臣達が広く領内で寄付を募って建立したそうだ

案外榊原家の人々が
この古石場の下屋敷を捨てるにあたって
その痕跡を未来へ伝えようと
我らが始祖康政を合祀し
そして何処かへと消えていった
なんていうお話の方が面白いなあ




二社神社
東京都江東区古石場2-7-3