赤坂氷川神社2014年02月01日 17時49分52秒

赤坂の氷川神社の傍に勝海舟の居宅があった
海舟はそこでジャーナリストのインタビューを受ける
そんな新聞記事を集めて本を出版した男がいた
海舟は此方は与り知らぬ事だからと
歯牙にもかけない

本はそこそこ売れたらしい
続編の話もあったようだ
言い回しを海舟っぽく
内容は意図的に
維新から三十年経った老人の
茶飲み話に仕立て上げられ
面白い読み物として受け入れられたのだろう

今はそんな出鱈目な内容を正した
再編集版を読む事が出来る
日本の歴史の大転換期におけるキーマンの
言葉と真意に触れる事が出来る
誤った歴史観を流布させないという
歴史学者の責任を全うする素晴らしい仕事だ

「おれはただ行ふべきことを行はうと大決心をして、
自分で自分を殺すような事さへなければ、
それでよいと確信して居たのサ。」

美化されたイメージによる歴史の焼き直しは
相変わらず反復されているが
それでも明治維新前後に活躍した人達は
個々人が自分のなすべき事をわきまえ
その責任をしかっりと抱えて
生きていたことは間違いないと思う

原発をやろうと言った奴は責任を取っていないし
原発を続けると言う奴は責任を取らないだろうし
原発を止めると言う奴もどうせ責任を取らないだろう
そして
僕等もまたその責任の取り方を知らない

勝先生、
日本はこんなんなっちゃいましたよ




氷川神社
東京都港区赤坂6-10-12

乃木神社2014年02月08日 16時03分05秒

大正元年9月13日
明治天皇の大葬が行われた
その夜8時頃
乃木稀典は妻静子と共に自刃する

この殉死の報は
熱狂的に人々に受け入れられ
当時の東京市長が旗を振り
乃木稀典と静子を祭神とする
乃木神社が建立される

日露戦争の英雄が
夫婦揃って殉死したなんて
当時の人々にとっては
最高に美しい話だったに違いない

一説では静子は決して
望んで死を選んだ訳ではなく
稀典の強くしつこい説得に
じゃあいいですと仕方なく
付き従ったと言う人もいる

本当のところはもう誰にもわからないが
100年近くも経った現在の東京に
乃木夫婦を神様とする立派な社と
巨大な鳥居と
自殺現場が残されている異常さ

軍神は崇め奉られ
沸騰した空気が民衆を政治家を軍人を
全ての日本人を包んでいく

そして十数年後
今日のような大雪の日
あの狂気の沙汰を皮切りに
空っぽの頭で日本人は
まっしぐらに破滅へ向かって突っ走り始めた




乃木神社
東京都港区赤坂8-11-27

赤城神社2014年02月11日 21時25分07秒

時は鎌倉時代
赤城山の麓から牛込に移住した
大胡彦太郎重治によって
赤城神社は創建されたとある

その後
太田道灌によって赤城神社は牛込台に遷座

時代は下り
相模の戦国大名
後北条第三代当主である氏康の招きで
赤城山麓より大胡氏がこの牛込の地に移住
赤城神社は現在地に移された

同じ大胡氏の流れを汲む者が既に
いたであろうこの地を選んだのはわかるが
そもそもの大胡彦田郎重治が何故ここに来たのか
よくわからない
牧場経営で一発当てようとしたのか
神社を伴ってきた程だから一家総ぐるみで
密命でも与えられてたのかもしれない

大胡氏の祖先は藤原秀郷である
藤原秀郷といえば
あの平将門の顳顬を射抜いた男
将門討伐の最大の功労者である

関東には平将門に所縁を持つ神社が多い一方で
藤原秀郷に所縁のあるものも多い
大胡彦田郎重治がアンチ将門を標榜する
そんな勢力だったという想像はあるいは妄想か

重治以前に建立されたアンチ将門神社が
この近辺に幾つかある
水稲荷神社と穴八幡宮そして鎧神社
鎧神社は将門を祀ってはいるが
藤原秀郷が鎧を埋めたという伝説もある

この3点は直線上に並ぶ
(水稲荷は昭和38年に現在地に遷座)
重治が建てた当初の赤城神社のあった場所は
元赤城神社として現在も残っている
そして元赤城神社はきれいにこのラインに乗る
何かを守るため
何かから守るため
赤城神社の分霊を背負って
彼はこの地にやって来たのではなかったか
藤原秀郷ラインによる防衛線の強化を
図ったのではなかったか


何から何を守ろうとしていたのかはわからないが
太田道灌はその意味を知り
自身のプロジェクトの主旨とは逸脱するため
赤城神社をラインから外したのではなかろうか

やはり東京の街は今でも
平将門の怨念と太田道灌の夢の上に成り立っている
なんてのは
いかがなもんすかね



赤城神社
東京都新宿区赤城元町1-10


元赤城神社
東京都新宿区早稲田鶴巻町568

日枝神社2014年02月15日 17時29分35秒

そうです
あの川で洗濯をしていたら
この鏑矢が流れてきたのです
ええ
家に持ち帰って
昼も夜も鏑矢を眺めて暮らしました
だってなんだかとっても男らしい形なんですもの
真っ赤で固くて大きくて
撫でたり...頬擦りしたりしました
えっ
そんなこと...
そんなことしてません
確かにその後この子を身籠りましたが
決してそんな...

日枝神社の祭神は大山咋神オオヤマクイノミコト
元々は渡来系の秦氏によって信奉されていた神様
鏑矢に姿を変え川を下り
拾った女性を妊娠させるという話が伝わる

平安時代には天台宗延暦寺の守護神となり
坊主のくせに武装した集団は
強訴を叫び朝廷を震え上がらせた
その勢力は全国に及び
歴代の将軍が手を焼く中
織田信長は比叡山の焼き討ちを決行
社殿は灰燼に帰す
その後秀吉の保護により復活
江戸時代には徳川と強く結びつき
江戸城の裏鬼門の守護として
今の永田町に日枝神社が建立される

現在では
独特の鳥居で他の神社との差別化を図り
皇城の鎮の扁額を掲げ国家との結びつきをアピール
秦氏が酒造技術を得意としたからか
全国から寄進された樽酒がずらりと並び
永田町にあるからか政治家の参拝も多いという
初詣には25万人の人手があり
年末には100人近くの巫女のバイトが募集される
年間を通してウエディングビジネスも盛んだ
この繁栄振りは
現在を生き延びる
神社の事業モデルの究極の姿かもしれない

2008年6月13日この赤坂の日枝神社で
神職である権禰宜(当時31才)が
巫女を強姦する事件が起きた

神幸祭の打ち上げの席で
権禰宜は巫女に2時間飲酒を強要し
社務所地下二階の女子更衣室で
巫女を脅し強姦
何故か警察は権禰宜を逮捕しなかった
書類送検後に強姦罪で起訴
懲役3年の実刑判決が下される

酔っぱらって鏑矢にでもなった気でいたのか
どうにも胸糞の悪い話である





日枝神社
東京都千代田区永田町2-10-5