秋葉神社〜原色の街 ― 2017年05月28日 18時58分14秒
日没が軒を焼き始める頃
細長く開いた路地の入り口から
どろりと色が溢れ出した
揺れるネオン
唇と爪
見たこともない赤が目を焼く
ピンクの布がひらひらと垂れ
柱の碧いタイルは宝石のように輝く
此処では女の肌だけが
無限に白い
空襲で被災した玉の井遊郭の
数件の業者が場所を変え
開業したのが鳩の街の始まり
敗戦後は性欲逞しいアメリカ兵のための
慰安施設として営業していたが
やたらと性病に罹ったらしく
OFF LIMITSの紙が貼られる
何もかも失っちまった日本人は
性病なんて屁でもねえと
言ったかどうかはわからないがその後
昭和33年までわずか10年ほど
日本人向けの赤線として毎夜
狭い路地を原色の炎で焼いた
今日と同じ明日が来ると
皆んなが皆信じているが
戦争ってえのは
一晩で人間の境遇を
ガラリと変えちまうものらしい
爆弾に当たって死んじまうのは勿論
会社も工場も灰になるし
親の金でいくらでも遊べたお嬢さんが
売春婦になったりする
そんな戦争を
なんだかやりたがってる風潮があるな
70年かけて腑抜けになった僕ら日本人には
どうせ無理な話だよ
鳩の街商店街の入り口から
水戸街道を渡ったところに
秋葉神社がある
己れの燃え上がる躰で
母親の産道を焼き膣を焼き
死に至らしめた火の神
腑抜けた日本人の姿に
きっとこう言うだろう
原色の炎を燃やすパワーすら無いくせに
巨大な不幸を
再び繰り返すつもりなのか



秋葉神社
東京都墨田区向島4-9-13
竜宮神社〜小樽のひとよ ― 2017年05月14日 18時18分14秒
昨日まで正しいと信じていたことが
どうやら崩れ去ってしまったらしい
お前は間違っていたのだと
したり顔で奴等は言う
明治政府が札幌に開拓使を置いたのが明治2年
札幌からほど近い小樽が
石炭の積み出しや物資の中継港の街として
僅かな間に爆発的に発展する
東京大阪に次ぐ国内3番目の鉄道が敷かれ
日本銀行を始めとする金融機関が林立
船舶会社や商社が次々と進出してくる
金が集まり
物が集まり
続々と人が流入する
昔の日本人は
人が集まるところには遊郭を作らなきゃね
とすぐに考えたらしい
北郭と南郭と呼ばれた2カ所に
大規模な遊郭があった
幼い頃に
私はその南郭跡地で育った
もちろん遊郭の経営などは戦前の話で
戦争でも消失しなかった建物が
一般市民の住居として機能していた
中庭と回廊のある木造二階建ての建築
大仰な石垣と異常な幅を有する道路
仲之町や弁天町といった消された町名
明らかに吉原遊郭を模した区画
嘗ては水道山の金比羅大権現まで
本物の花魁道中が行われたという
その入り口には大門が在ったのだろう
大門湯という銭湯がまだ当時在った
戦地においても
遊郭を作らなきゃねという感覚は
当たり前だったのさ
不細工な銅像が取り沙汰されてるが
それが事の総てであるなんて思っちゃあいけない
箱館戦争の科で投獄されていた榎本武揚
釈放後は北海道の開拓使として活躍する
榎本は現在の小樽駅周辺の土地20万坪を
払下げにより取得している
この土地は
アイヌの聖地であった
祭祀が行われた土地
アイヌの神は
クマの格好で現れる
クマを殺した後は必ず
感謝を捧げ
祭祀を行い
クマから抜け出た神に機嫌よく帰っていただき
その肉を食い
毛皮を利用する
恐らくはアイヌの祖先の墓でもあっただろうか
この小高い丘の上に
榎本は神社を築く
祭神は桓武天皇
平安京を築いた天皇だ
東北の蝦夷制圧に最注力した天皇が
アイヌの聖地の上に置かれている
この竜宮神社のお祭りは賑やかだった
周辺の通りにはびっしりと屋台が立ち並ぶ
成人向け映画館なんかがあったこの辺は
子供の私にはお祭りの日以外は
禁忌の場所に思えていた
禁忌の場所に思えていた
ほんの僅かな間に
怒涛の発展と急激な衰退を遂げたこの街
意図せず残された歴史的建造物に
内外から観光客が集まる
ガイド本なんかに煽られて
寿司やら蟹ばっか食ってたって
自らの正しさを信じて生きていた
人々の思いには気づけやしない



竜宮神社
北海道小樽市稲穂3-22-11
天龍大神〜地図にない街4 ― 2015年09月06日 17時53分56秒
男達は降りていく
無言のまま
紫の灯りの溜まる底の方へ
男達は降りていく
夜の底の底の方へ
古代の空には
鳶が飛び交い
非人が引きづる罪人の死骸を狙う
墓石の向こうに
五重塔が見える
寄る辺もない
捨てられた魂には
朝廷も寺院もなす術がない
せめて縋るのは
出自不明の龍神が相応しかったのか
明治の淫祠邪教の排斥にも
ほとんど相手にされなかったのか
都市は膨張し
非日常は外側へ追いやられる
鳶の飛び交う墓場の上に
巨大な飛田遊郭は出現した
破壊の後の非日常的な日常から逃れるべく
あの懐かしい非日常の世界へ人は集まる
外力によるパラダイムシフトへも
他に類のないメタモルフォーゼを遂げ
孤高の街が完成する
街は高い壁と龍神の結界に囲まれ
今はもう
地図にその名が刻まれることはない
女子供は決してここに
入っちゃいけない
消毒がじわじわと近づいている
広大なショッピングモールと
綺麗なマンション群が
結界の街を取り囲む
女子供がカラカラと笑う
横を通り過ぎる静かな男達には
頼むから構わないでくれ
男達は降りていく
夜の底の底の方へ


天龍大神
大阪府大阪市西成区山王2-1-19
鷲神社 ― 2015年02月08日 15時42分07秒
金龍山浅草寺の祭り
鷲明神の酉の市
何かとイベントにかこつけて皆
ここ新吉原を訪れる
夜中まで乱痴気騒ぎは終わらない
不夜城と呼ばれた新吉原
当時は夜八つと言ったそうだが
深夜二時にもなると
見世の大戸は降ろされ
水道尻秋葉社の常夜灯の炎以外は
動くもののない
音のない世界が拡がる
だけど今日は普段と違ってた
ギィギィと鈍い音を立てて
跳ね上げ橋が降ろされる
お歯黒どぶに橋が架かる
見窄らしいなりをした男が二人
片棒担いで大きな桶を運び出した
梅毒だろうか結核だろうか
死んだ花魁は大門からは出られない
普段は開くことのない不浄門
棺桶を担いだ男二人がそこを通って
畑の道へ出る
鷲明神の裏手だろうか
その道筋は今ではよくわからないが
田地の先
浄閑寺へ花魁の遺体は運ばれる
真夜中に棺桶を運ぶこの男たちは何者だろう
見世のスタッフだろうか
周辺に住む農民だろうか
死をケガレと捉え忌避された時代
ましてや
ディズニーランドを遥かに超える夢の世界で
徹底的に死は隠される
スタッフだろうと誰だろうと
死体になど決して触れたくない
暇な方は江戸切り絵図で
新吉原周辺を見ていただきたい
正方形を45度程傾けたような街路形状
一番下隅に何も書かれていない長方形の空間が
ぴったりくっついているのに気づく
ここには非人頭である車善七の居宅があった
居宅のある敷地の中には
車善七の手下達も住んでいる
車善七はそんな非人達を統括する管理者であった
物乞いはもちろん
屑拾いといった清掃に始まり
処刑の執行さらには死体の処分などを指示した
吉原で死んだ遊女の運搬も彼らの仕事であった
近くの紙洗橋で墨を落とした古紙が山のように積まれ
廓内で客のこぼした酒を集めてここで売った
廓内の九郎助稲荷のあたりから
この車善七の居宅が
よく見えたのではなかろうか
狂宴に酔い痴れる人々への戒めに
意図的に彼らをここに置いたのかもしれない
身分と職業がイコールであった時代
現代のものの見方では到底理解できるものではないが
それはケガレをキヨメるという宗教性を内包する
歴史的に構築され組織化された社会システムであった
鷲神社の向こうに
区立台東病院のきれいな建物が見える
都立台東病院の廃止後に建ったものだ
都立病院は元々は明治時代に娼妓の性病専門で
警視庁が設置した吉原病院がその前身だ
組合事務所と隣接して
仲ノ町通りの先を
行き止まりのように塞いでいた
浄閑寺へも立ち寄る
娼妓たちの埋葬は戦後も続いていたという
その数は300年間に二万数千に及ぶらしい
墓地を奥へ進むと新吉原総霊塔がある
カメラを向けると
またしても何故かシャッターが切れない
やはり寺とは相性が悪いらしい
鷲明神の裏手だろうか
その道筋は今ではよくわからないが
田地の先
浄閑寺へ花魁の遺体は運ばれる
真夜中に棺桶を運ぶこの男たちは何者だろう
見世のスタッフだろうか
周辺に住む農民だろうか
死をケガレと捉え忌避された時代
ましてや
ディズニーランドを遥かに超える夢の世界で
徹底的に死は隠される
スタッフだろうと誰だろうと
死体になど決して触れたくない
暇な方は江戸切り絵図で
新吉原周辺を見ていただきたい
正方形を45度程傾けたような街路形状
一番下隅に何も書かれていない長方形の空間が
ぴったりくっついているのに気づく
ここには非人頭である車善七の居宅があった
居宅のある敷地の中には
車善七の手下達も住んでいる
車善七はそんな非人達を統括する管理者であった
物乞いはもちろん
屑拾いといった清掃に始まり
処刑の執行さらには死体の処分などを指示した
吉原で死んだ遊女の運搬も彼らの仕事であった
近くの紙洗橋で墨を落とした古紙が山のように積まれ
廓内で客のこぼした酒を集めてここで売った
廓内の九郎助稲荷のあたりから
この車善七の居宅が
よく見えたのではなかろうか
狂宴に酔い痴れる人々への戒めに
意図的に彼らをここに置いたのかもしれない
身分と職業がイコールであった時代
現代のものの見方では到底理解できるものではないが
それはケガレをキヨメるという宗教性を内包する
歴史的に構築され組織化された社会システムであった
鷲神社の向こうに
区立台東病院のきれいな建物が見える
都立台東病院の廃止後に建ったものだ
都立病院は元々は明治時代に娼妓の性病専門で
警視庁が設置した吉原病院がその前身だ
組合事務所と隣接して
仲ノ町通りの先を
行き止まりのように塞いでいた
浄閑寺へも立ち寄る
娼妓たちの埋葬は戦後も続いていたという
その数は300年間に二万数千に及ぶらしい
墓地を奥へ進むと新吉原総霊塔がある
カメラを向けると
またしても何故かシャッターが切れない
やはり寺とは相性が悪いらしい


鷲神社
東京都台東区千束3-18-7

浄閑寺 新吉原総霊塔
東京都荒川区南千住2-1-12
袖摺稲荷神社〜紙洗橋 ― 2015年01月17日 22時45分44秒
土手の両側は寂しい風景だ
田地が広がるのと
鄙びた町屋が並ぶのと
山谷堀の静かな流れ
あんな煌びやかな世界が
この先にあるなんて
このまま進んでもよいが
土手を降りて
町屋の間を縫って
お稲荷さんに参拝するとしようか
なんの祭りだ
この人集りは
これじゃあ
お稲荷さんにも辿り着けない
それじゃあ今日のところは
白塗りのお狐様を拝むだけで勘弁してもらおう
もうすぐそこが吉原大門だ
ええ
お前知らねえのか
あいつら非人は
拾ってきた紙屑をあそこで洗って
もう一回売り物にするのさ
だからあの橋を
紙洗橋って言うんだ
なんで此処にいるのかって
そんなもん知らねえよ
袖摺稲荷は
民家の間の狭い隙間に鎮座している
まさに袖摺るくらいの細い入り口と階段
恐らくはその名前からの後世の演出だろうが
当時は長三角の境内地であったことが
明治の古地図で確認でき
本当に狭い入り口だったのだろう
由緒書きによれば
小西半右衛門という人物が
夢のお告げによりこの稲荷を祀ったという
やたらとご利益があったため
四代将軍家綱より町屋御免を賜ったとある
神社の由緒書きというのは
そのまま読むと支離滅裂で
本当に知りたいことが何一つ書いていないので
少し調べてみる
小西半右衛門はどうやら
伊丹で酒造業を営んでいた男で
関西から江戸へ馬を使って
酒樽を長距離輸送し販売するという
画期的なビジネスモデルの創始者であるらしい
酒は白雪で有名な
現在の小西酒造株式会社につながる
とすれば
小西半右衛門という男は
将軍からお墨付きをもらい
吉原へ通ずる日本堤の脇に供給拠点を設け
吉原で日々大量に消費される酒の供給を
一手に引き受ける
やり手のビジネスマンであったことが想定できる
供給拠点の隣に商売繁盛のため
この袖摺稲荷を祀ったに違いない
袖摺稲荷にほど近い
山谷堀に紙洗橋という橋があった
山谷堀が埋め立てられた後も
橋の親柱が今でも残されているし
交差点の名前にもなっている
私は最初「髪」洗橋だと思って
きっと吉原の遊女たちが
半裸で髪を洗った場所に違いないなどと
勝手に勘違いしておりましたすいません
収集した使用済みの大福帳などを
ここで洗って墨を落として
当時は落とし紙と言ってたが
トイレットペーパーとして
リサイクルされていたそうだ
これらを見ただけでも
江戸時代の社会システムが
現代にも引けを取らない
優れたものであったことがわかる
違っていたのは
職業と身分がイコールであったことか
なぜ非人たちがここにいたか
それは回を改めていずれ書きたいと思う
町屋の間を縫って
お稲荷さんに参拝するとしようか
なんの祭りだ
この人集りは
これじゃあ
お稲荷さんにも辿り着けない
それじゃあ今日のところは
白塗りのお狐様を拝むだけで勘弁してもらおう
もうすぐそこが吉原大門だ
ええ
お前知らねえのか
あいつら非人は
拾ってきた紙屑をあそこで洗って
もう一回売り物にするのさ
だからあの橋を
紙洗橋って言うんだ
なんで此処にいるのかって
そんなもん知らねえよ
袖摺稲荷は
民家の間の狭い隙間に鎮座している
まさに袖摺るくらいの細い入り口と階段
恐らくはその名前からの後世の演出だろうが
当時は長三角の境内地であったことが
明治の古地図で確認でき
本当に狭い入り口だったのだろう
由緒書きによれば
小西半右衛門という人物が
夢のお告げによりこの稲荷を祀ったという
やたらとご利益があったため
四代将軍家綱より町屋御免を賜ったとある
神社の由緒書きというのは
そのまま読むと支離滅裂で
本当に知りたいことが何一つ書いていないので
少し調べてみる
小西半右衛門はどうやら
伊丹で酒造業を営んでいた男で
関西から江戸へ馬を使って
酒樽を長距離輸送し販売するという
画期的なビジネスモデルの創始者であるらしい
酒は白雪で有名な
現在の小西酒造株式会社につながる
とすれば
小西半右衛門という男は
将軍からお墨付きをもらい
吉原へ通ずる日本堤の脇に供給拠点を設け
吉原で日々大量に消費される酒の供給を
一手に引き受ける
やり手のビジネスマンであったことが想定できる
供給拠点の隣に商売繁盛のため
この袖摺稲荷を祀ったに違いない
袖摺稲荷にほど近い
山谷堀に紙洗橋という橋があった
山谷堀が埋め立てられた後も
橋の親柱が今でも残されているし
交差点の名前にもなっている
私は最初「髪」洗橋だと思って
きっと吉原の遊女たちが
半裸で髪を洗った場所に違いないなどと
勝手に勘違いしておりましたすいません
収集した使用済みの大福帳などを
ここで洗って墨を落として
当時は落とし紙と言ってたが
トイレットペーパーとして
リサイクルされていたそうだ
これらを見ただけでも
江戸時代の社会システムが
現代にも引けを取らない
優れたものであったことがわかる
違っていたのは
職業と身分がイコールであったことか
なぜ非人たちがここにいたか
それは回を改めていずれ書きたいと思う



袖摺稲荷神社
東京都台東区浅草5-48-9
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