金王八幡宮2014年05月10日 17時44分29秒

五月に死んだ詩人は
五月に誕生したと詠う
呪詛となった詩人の言葉は
今も有効に機能しているだろうか

街中が舞台となって
街中が劇場となって
一般市民も警察官も
演者となり観客となる

スマホなんか無くても
場に存在することで
全員が関係者になる
傍観者など許されない

渋谷の金王八幡の境内と
その近くの自分の劇場で
詩人は乱闘事件を起こす
それもまた詩であり演劇のようだな

詩人は呪詛の言葉で
書を捨てて街へ出ろと
母を殺して家出しろと
競馬場へソープへ行けと人々を煽る
誰もが詩人の演出で市街劇を演じ始める

でももう今は詩人はいない
呪詛は解けてしまったようだ
ビルばかりが伸びてく街で
詩も物語も生まれなくなった街で
ほんとうはみんな
過激な市街劇が始まるのを待っているんだろ

「きらめく季節に
 誰があの帆を歌ったか
 つかの間の僕に
 過ぎてゆく時よ」
(「五月の詩・序詞」寺山修司)



金王八幡宮
東京都渋谷区渋谷3-5-12

石塚稲荷神社2014年05月17日 22時49分40秒

柳橋の路地裏の二階
若かりし頃の永井荷風は
風に動く簾越しに
向いの部屋を覗き見る
夏の光の射す畳の上で
浴衣姿の女が四、五人
ごろごろ寝転んでいた

柳橋は江戸時代から
吉原へ向かう猪牙舟などの船宿として
また両国川開きの花火見物で
江戸屈指の花街へと発展した

明治の世となり
薩長新政府が幅を利かせる中
旧幕贔屓の柳橋の芸妓は
彼等に全く靡かなかった

新政府は余程悔しかったのか
新橋に新しい花柳界をつくる
柳橋芸妓のプライドと意気を感じる話である

政府高官など相手にせずとも
財界としっかり結びついた柳橋花街は
戦後まで隆盛を極めた

高度経済成長で益々繁盛するかと思われたのが
皮肉にも経済の発展に伴う隅田川の汚染により
川辺はメタン臭に溢れ花火大会も中止
旦那衆も世代交代で
客足は格式張った料亭などより
銀座のクラブへと流れていった

石塚稲荷の玉垣には今も
嘗ての料亭や芸妓屋の名が刻まれている
銀座のクラブの店の名前なんて
百年後には確実に残ってないだろう

柳橋花街はプライドと意気と
意志を持ってそのまま留まり
自ら滅びゆく道を選んだのかもしれない
その姿は儚くまた美しい

激しく変わる状況の中で
人も組織も変化を強いられる
変化に気付かず過去の経験に縋り
ぼうっとしたまま
茹でガエルのように滅んでいくのは
あまりに醜く
無様だ





石塚稲荷神社
東京都台東区柳橋1-1-15

三島神社2014年05月21日 21時09分23秒

時は1281年、弘安4年
15万の軍勢と4千の軍船が日本に向けて出航する
後に弘安の役と呼ばれる
モンゴル帝国による二度目の日本侵攻である
日本は強靭な防衛体制で挑みこれに勝利
活躍した武将に河野通有ミチアリという男がいた

台東区には三島神社が三つある
どれも由緒は一緒で
河野通有が凱旋した際に
この関東の地に
大山祇神オオヤマズミノカミを祀るよう
夢のお告げがあったのだという

大山祇神を祀る大山祇神社は
瀬戸内海の大三島にある
愛媛の豪族越智氏が百済から伝えた神様らしい

河野氏は越智氏につながる一族
瀬戸内で名を馳せた水軍である
大山祇神を信奉するのはわかるが
何故遠く関東の地にまで
神社を建てねばならなかったのだろう

河野氏は何度も衰退の憂き目に遭う
戦いに敗れた一族一派は方々へ流れ着き
そこで自分たちの神様を祀る
そんな想像が浮かぶ
そしてある時この関東の地まで辿り着き
上野の山際に住み着いた

時は下って江戸時代
上野の山にあった三島神社は
寛永寺の造営に伴い金杉村に移転
その後そこも御用地となり寿4丁目に遷座
現在の本社三島神社である

ところが氏子達がこれでは遠すぎるとクレームをつけ
根岸の熊野神社に合祀
現在の元三島神社である

さらに金杉村字金杉町にも勧請
現在の下谷の三島神社である

既にこの時河野氏は没落衰退していたのに
江戸の街で大山祇神を信奉する氏子の存在
幕府に楯突いてまで自分たちの神様を守る意地
水軍の末裔としてのプライドが
そこにあったのかもしれない

実際に下谷から寿4丁目まで歩いてみたのだが
結構な距離で文句の一つも言いたくなるな
本社と名乗るもひっそりと忘れ去られた印象

鴬谷駅前の元三島神社なんて
境内の下には飲み屋のテナントが入り
周りはラブホテルだらけの
ビジネスとしては成功者といった風貌

それと今でも
下谷の三島神社の宮司は
河野さんらしいよ


本社三島神社
東京都台東区寿4-9-1


元三島神社
東京都台東区根岸1-7-11


三島神社
東京都台東区下谷3-7-5