袖摺稲荷神社〜紙洗橋2015年01月17日 22時45分44秒


土手の両側は寂しい風景だ
田地が広がるのと
鄙びた町屋が並ぶのと
山谷堀の静かな流れ

あんな煌びやかな世界が
この先にあるなんて

このまま進んでもよいが
土手を降りて
町屋の間を縫って
お稲荷さんに参拝するとしようか

なんの祭りだ
この人集りは
これじゃあ
お稲荷さんにも辿り着けない
それじゃあ今日のところは
白塗りのお狐様を拝むだけで勘弁してもらおう
もうすぐそこが吉原大門だ

ええ
お前知らねえのか
あいつら非人は
拾ってきた紙屑をあそこで洗って
もう一回売り物にするのさ
だからあの橋を
紙洗橋って言うんだ
なんで此処にいるのかって
そんなもん知らねえよ

袖摺稲荷は
民家の間の狭い隙間に鎮座している
まさに袖摺るくらいの細い入り口と階段
恐らくはその名前からの後世の演出だろうが
当時は長三角の境内地であったことが
明治の古地図で確認でき
本当に狭い入り口だったのだろう

由緒書きによれば
小西半右衛門という人物が
夢のお告げによりこの稲荷を祀ったという
やたらとご利益があったため
四代将軍家綱より町屋御免を賜ったとある

神社の由緒書きというのは
そのまま読むと支離滅裂で
本当に知りたいことが何一つ書いていないので
少し調べてみる

小西半右衛門はどうやら
伊丹で酒造業を営んでいた男で
関西から江戸へ馬を使って
酒樽を長距離輸送し販売するという
画期的なビジネスモデルの創始者であるらしい
酒は白雪で有名な
現在の小西酒造株式会社につながる

とすれば
小西半右衛門という男は
将軍からお墨付きをもらい
吉原へ通ずる日本堤の脇に供給拠点を設け
吉原で日々大量に消費される酒の供給を
一手に引き受ける
やり手のビジネスマンであったことが想定できる
供給拠点の隣に商売繁盛のため
この袖摺稲荷を祀ったに違いない

袖摺稲荷にほど近い
山谷堀に紙洗橋という橋があった
山谷堀が埋め立てられた後も
橋の親柱が今でも残されているし
交差点の名前にもなっている

私は最初「髪」洗橋だと思って
きっと吉原の遊女たちが
半裸で髪を洗った場所に違いないなどと
勝手に勘違いしておりましたすいません

収集した使用済みの大福帳などを
ここで洗って墨を落として
当時は落とし紙と言ってたが
トイレットペーパーとして
リサイクルされていたそうだ

これらを見ただけでも
江戸時代の社会システムが
現代にも引けを取らない
優れたものであったことがわかる
違っていたのは
職業と身分がイコールであったことか
なぜ非人たちがここにいたか
それは回を改めていずれ書きたいと思う




袖摺稲荷神社
東京都台東区浅草5-48-9

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://dandyhandsomeboy.asablo.jp/blog/2015/01/17/7540974/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。